第8話

音楽の病
156
2020/03/04 03:28
葉室未来
葉室未来
死ぬ死ぬ死ぬぅぅ!!
音寧結月
音寧結月
死なない。ほらもう1回
地獄の特訓、2日目。
悶え叫ぶ未来に全力で共感する。
未来、何回同じところ弾かされてるんだろう。
余裕で50は超えている気がするのは気のせいか…?
葉室未来
葉室未来
うえぇぇ…帰りたいよぅ……
音寧結月
音寧結月
そんなこと言わない。ほら座って
音寧さんは床に倒れ込んでいる未来の腕を引っ張りズルズルと引きずっている。扱いが雑だった。
呻きながら椅子に座ったのを見てから、音寧さんが僕を振り仰いだ。
文月透
文月透
え、な、何…?
僕をじっと見つめ、熟考するように腕を組む。
しばらくの間僕が固まっていると、よしと頷く。
物凄く嫌な予感がした。
音寧結月
音寧結月
こっち、座って
文月透
文月透
……えっと、こっちって?
こっち、と指したのは、グランドピアノだったが、確認のため聞き返す。
音寧結月
音寧結月
こっちのグランドピアノだよ、ほら
こっちと指していたのはやはり、未来の座っていたグランドピアノだった。
開放感に満たされた顔で、未来はすすすと立ち上がり近くの椅子に座る。
これは…もう僕が座る流れだな。
観念してグランドピアノの椅子に座ると、柊も興味深そうにこちらを注視して練習を中断している。
そんなに見ないでくれ…。
音寧結月
音寧結月
じゃあ、メープルリーフ・ラグ弾いてみて。昨日の夜弾いたから、もう覚えたんでしょ?
葉室未来
葉室未来
まじか………
珍種の動物を見るかのように、狐につままれたような顔をする未来。僕が耳がいいのは知っているはずだけど、予想外だったらしい。
しかし、優越感は感じなかった。
不思議だ。勉強やら運動などとは違い、ピアノに関して僕はひどく達観しているというか、どこか沈着な見方をしていた。
立花柊
立花柊
……
柊は、興味深げに黙考しているようだった。



僕は、手を開いて閉じるのを何回か繰り返し、指の動きを確かめてから、鍵盤にそっと乗せた。
これも、不思議だ。
この瞬間、僕は、鏡を見ているような錯覚に陥る。
ピアノは、鏡だ。
迷いも、覚悟も、何もかもを映し出す。
恐ろしくも、美しい鏡。



ふうと1つ息を吐き出し、鍵盤を叩いた。







ーー私は目を見開く。
驚いているはずなのに、心のどこかは冷めていた。
音楽の世界に、天才などいくらでもいる。
私は何人も見てきた。
才能のない私の遥か前を進んでいく人なんて何人も見てきた。とっくに慣れている…と思っていた。
なのに。
この音は、何だ。
音が、歌っている。踊っている。
ただただ楽しげに。
いっそ恐ろしいほどの音。




眩い光をたくさん浴びて、穏やかな風にたなびく、どこまでも続く広大な草原の中。
ぽつんと1人きり、透がピアノを奏でている。
風が、優しく頬を撫でる。
風が、歌っている。
空が、歌っている。
ピアノが、歌っている。
舞台の幕を上げるかのように、輝く音。




楽しげで、穏やかで、けれどひたすらに孤独で。
一瞬。何故か。
結月と、透の姿が、重なった。




まったく、この天才どもめ。
劣等感に満たされた私は、小さく息をつく。
私は、ピアニストになり損ねた。
結月や透や柊のような才能が、私にはなかった。
ないものをいくらねだっても、何も変わらない。
諦めた、はずだった。音楽家の夢も、あの夢のような一瞬を追い求めることも。
それなのに。
私は、体を渦巻く悔しさに、硬く硬く拳を握る。
ひがみも、妬みも、消していくようなその音。
途方もなく開いた距離に虚脱し絶望すると共に、その音に惹き込まれてしまっているという事実も、今はただ、悔しくてしょうがなかった。


ーー僕は、微かに思い出す。
師匠と敬愛する少女との出会いを。
僕の…いや、の黒い感情を、文字通り吹き飛ばした、あの奇跡のような音を。
透の音は、不思議だ。
師匠とも違う。…どこか、懐かしいような、哀しいような、不思議な響きをしている。
だからだろうか。
思い出すのは、暖かい記憶。
師匠の、いつものように唐突な言葉。




私はね、探してるの。
巫女のように、神聖な佇まいで、師匠は言った。
…何を、ですか?
ピアニストでいたいと思えるような、そんな一瞬。…たったそれだけを探すのに、音楽家は皆死ぬほど練習してる。私だけじゃない。皆、探してるの。音楽家として、生きていたいと思える瞬間を。
……何でそこまでして、探すんですか?
それはね、立花くん。
いたずらっぽく笑って、師匠は言った。
この世界は、音楽で溢れているからだよ。 




ほんの少し、分かった気がした。
透の音は、思い出を『思い出させる』音なのだ。
おぞましいほどの、音の力。
音に、思い出に、溺れそうなほどでーー


ふぅ、と透が息をつく。
文月透
文月透
…えーっと…どうでしょうか
恐る恐るといったふうに透は僕らを振り仰ぐ。
僕と未来は、一様に師匠を見る。
やはり、ここは師匠の出番だと思うからだ。
師匠は、まだ目を閉じていた。
何拍かの沈黙の後。
音寧結月
音寧結月
…ペダルが甘い。踏み込むべき時に腰が引けてる。音もまだ少しフラフラしてる。何というか……安定してない
文月透
文月透
ごもっともです…………
うう…と、指摘にしょげたように呻く透。
しかし、僕と未来は知っている。
師匠の目は、輝いている。これは紛れもなく、透の演奏によるものだから。
音寧結月
音寧結月
けど…、やっぱり転校生の音はいい。すごいとかじゃなくて、いいと思う
それが、師匠にとっての最大の賛辞であることに、透が気付くはずもない。
文月透
文月透
…ありがとう、音寧さんに言ってもらうと安心する。あ、あと、ここのところなんだけど…
音寧結月
音寧結月
ああ、そこはね…
2人は、楽しそうにピアノと触れ合っている。
おそらく、僕と未来の感情は一致している。
ほんの少しの悔しさ、憐憫と、…負けてたまるかという、意地で僕達は練習に戻った。
音楽は、恋に似ている。
青春全てを捧げて、音楽をしようとしている。
それはなんて、愚かしく、愛おしいのだろう。





私は、ひそやかに目を閉じていた。
今日の練習が終わり、皆を帰した後。
一人きり、薄暗い教室でピアノを奏でる。
一瞬、ただ一瞬。
私を、音楽の世界に引き戻してくれる瞬間を、追い求めて、ずっとずっと、ずっともがいてきた。
もしかしたら、と微笑む。
転校生かもしれない。私に、音楽をさせてくれるのは。まだ見たことのない景色を見せてくれるのは。
今日の転校生の演奏を思い出す。
技術はまだ追いついていないけど…けど、きっと。一瞬のような永遠を、見せてくれる。
おぞましいほど、楽しそうな音。
彼は、天才だ。神童ではなく、天才だ。
それが、吉とでるか、凶とでるか。鍵盤から手を下ろし、考える。
分からなかった。

実際のところ、分からないのだ。
彼女も、彼については、未知の領域だったから。
音寧結月
音寧結月
…それもまた一興、か
小さな呟きを知るものはいなかった。








…走馬灯のように、風景がぐるぐる回る。
どこかで誰かが僕を呼んでいる。
どこかで聞いたことがあると首を傾げる。
いや、どこかで、じゃない。毎日聞いている声。 
誰が僕のことを呼んでいるんだろう。
葉室未来
葉室未来
おーい、透ー?
相変わらず無遠慮な声は誰のものだろう。
立花柊
立花柊
寝てるんでしょうか、師匠
静かで穏やかな響きをした声は誰のものだろう。
音寧結月
音寧結月
うーん…現実逃避じゃない?
文月透
文月透
違うよ!!!
バッと勢いよく顔を上げた僕の周りには、ピアノ部の皆が集結していた。
そう、お察しのいい方は気付いていると思うが…。
そうです、今日は4月20日、本番です。 
音楽祭当日です。胃が痛いです。
これまでの地獄の特訓が走馬灯のように頭を駆け巡ってしまうほどに緊張しています。
誰に説明してるんだって?僕も知らない。
音寧結月
音寧結月
ほら、もうすぐ出番なんだから
座り込んでいた僕の腕をぐいと引っ張り、強制的に立たされる。そう、出番である。
もうすぐ出番なのである。……いや、正しくは、もうすぐ『舞台ジャック』をするということである。



舞台をジャックするなんて、頭おかしいだろって?僕も本当そう思う。あの時は頭がどうかしていた。



ちんぷんかんぷんな読者の諸君に説明しよう。
今現在の時刻は11時半。
本来であれば、僕達は11時45分からの出番に備えて本来の発表場所である裏庭ステージ付近で待機していなくてはならない。
が。僕らがいる場所は裏庭ステージなどではない。体育館の無人の舞台袖である。
もう理解できただろう。僕達は体育館ステージを、乗っ取るのだ。
まあ乗っ取り方にもひと工夫あるのだけど。
そこらへんに抜かりはない。
何故音楽祭という賑やかなイベントで、1番人の集まる体育館ステージの舞台袖が無人なのか、という疑問があるかもしれないが、それはまたあとで。




それにしてもこの音楽祭ってすごい、と感心する。
普通、音楽祭なんかは生徒も体育祭などと比べてもあまり盛り上がらないと思うのだけれど…屋台が出たり多種多様な出し物があるからなのか、クラスの熱もすごかった。クラスの温度が、外より2度か3度上がっていたといっても過言ではない。
………ごめんなさい過言でした。




南宮音楽祭についてほんの少し、説明しよう。
この音楽祭は、午後2時から5時の間で、全クラスによる合唱の出し物がある。いわゆる合唱祭も兼ねているのである。
僕のクラスも、当然の如く熱心だった。
きっと、音寧さんや未来のクラスもそうだろう。
文化祭と同じくらいに力の入っている行事らしい。




この体育館にも、大勢の人が詰めかけている。
南宮中の生徒はもちろん、保護者、そしてなんと、他校の生徒達も沢山見に来ている。
南宮中付近の、暇な小中学生が冷やかしに来るほどらしくこの近くでは結構名の知れた音楽祭らしい。…他校生は屋台の食べ物目当てかもしれないが。
とにかく、校内は大盛況ということである。




本当に文化祭みたいだ、と思う。
各クラス、正門付近の屋外の屋台だけでなく校内での催しも企画している。第2の文化祭という呼び名も伊達じゃない盛り上がりだ。
僕のクラスも、お化け屋敷を作った。
僕も本来なら今は受付をやっているはずなのだが、クラスの皆の配慮で早めに抜けさせてもらった。
柊も未来も音寧さんも同様である。
ステージの上では、サッカー部の部活説明のような出し物が行われている。
わざわざ音楽祭で部活勧誘なんて人の多いサッカー部はしなくてもいいと思うけど…まあ体育館には、入学したての1年生達が楽しそうに、漫才のようにテンポのいい掛け合いのサッカー部の出し物を見ているから、効果はあるんだろう。
サッカー部の出し物が終われば、次は、バスケットボール部の出し物だ。



ふう、と息をつく。深呼吸は大事だ。心にゆるりと心地よい隙間ができるから。
葉室未来
葉室未来
あー…緊張してきた
音寧結月
音寧結月
未来は何回も人前で演奏してるじゃん
葉室未来
葉室未来
それとこれとは別なの!
立花柊
立花柊
未来はヘタレだからしょうがない
葉室未来
葉室未来
違うわよ!!ヘタレ言うな!!
僕を除くピアノ部御一行はリラックスして、軽口を叩きあっている。肝が据わっているというか………、何か、もうちょっと緊張しないのだろうか?
僕だけ緊張しているって、僕が変みたいな感じだ。
音寧結月
音寧結月
転校生、大丈夫?
音寧さんは、緊張している僕を宥めるように穏やかな声音で聞いてくる。
深呼吸をして、最後に深く息を吐く。
文月透
文月透
…うん、大丈夫
楽譜を全部覚えて暗譜出来たし、あとは地獄のような練習の成果を出し切るだけ。
覚悟はできた。
というよりも、前々から覚悟はしていた。
青春全て捧げる覚悟ぐらいはしている。それぐらい僕は、音楽に、ピアノに、音寧さんの音に惹き込まれてしまっているから。
もう一度、暗い袖の中を見渡す。
葉室未来
葉室未来
あー…もうどうにでもなれ
渋々覚悟を決めたように未来が言う。
僕は知っている。
未来は、この場の誰よりも全員を思いやっている。
だから、こんなにも気遣う顔で苦笑している。
立花柊
立花柊
よし、一泡吹かせてやろう
相変わらずの表情に乏しい顔で柊が呟く。
僕は知っている。
その静かで小さな声音に秘められた、音楽への熱情と、燃え盛るような気合を。
音寧結月
音寧結月
…よし、じゃあ行こうか
どこか不敵な笑みで、音寧さんが言う。
僕は知っている。
どうしようもないくらい問題児で鬼のようなコーチだけれど、いつだって音楽へ真摯だということ。
僕達は、顔を見合わせ、頷く。
サッカー部の発表が終わったのが、客席からの拍手と歓声から分かった。
舞台の向こうの光。
響く歓声と拍手。
それら全ては、始まりの予感に満ちていた。





ーーさあ。僕らの舞台のはじまりだ。


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