第31話

怪人二十面相-不安の一夜 2-
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2020/05/28 09:01
 それからしばらくことばがとだえて、ふたりはてんでの考えごとをしながら、おいしそうにたばこをすっていましたが、それがすっかり灰になったころ、明智はまたあくびをして、
明智小五郎
ぼくは少しねむりますよ。あなたもおやすみなさい。なあに、大じょうぶです。武士はくつわ、、、の音に目をさますっていいますが、ぼくは職業がら、どんなしのび足の音にも目をさますのです。心までねむりはしないのですよ。
 そんなことをいったかと思うと、板戸の前に長々と横になって、目をふさいでいました。そして、まもなく、スヤスヤとおだやかな寝息が聞こえはじめたのです。

 あまりなれきった探偵のしぐさに、老人は気が気ではありません。ねむるどころか、ますます耳をそばだてて、どんなかすかな物音も聞きもらすまいと、いっしょうけんめいでした。

 何かみょうな音が聞こえてくるような気がします。耳鳴りかしら、それとも近くの森のこずえにあたる風の音かしら。

 そして、耳をすましていますと、しんしんと夜のふけていくのが、ハッキリわかるようです。
 頭の中がだんだんからっぽになって、目の前がもやのようにかすんでいきます。

 ハッと気がつくと、そのうす白いもやの中に、目ばかり光らした黒装束くろしょうぞくの男が、もうろうと立ちはだかっているではありませんか。
日下部左門
アッ、明智先生、賊です、賊です。
 思わず大声をあげて、寝ている明智の肩をゆさぶりました。
明智小五郎
なんです。そうぞうしいじゃありませんか。どこに賊がいるんです。夢でもごらんになったのでしょう。
 探偵は身動きもせず、しかりつけるようにいうのでした。

 なるほど、今のは夢か、それともまぼろしだったのかもしれません。いくら見まわしても、黒装束の男など、どこにもいやしないのです。

 老人は少しきまりが悪くなって、無言のままもとの姿勢にもどり、また耳をすましましたが、するとさっきと同じように、頭の中がスーッとからっぽになって、目の前にもやがむらがりはじめるのです。
 そのもやが少しずつ濃こくなって、やがて、黒雲くろくものようにまっくらになってしまうと、からだが深い深い地の底へでも落ちこんでいくような気持がして、老人は、いつしかウトウトとねむってしまいました。

 どのくらいねむったのか、そのあいだじゅう、まるで地獄へでも落ちたような、おそろしい夢ばかりみつづけながら、ふと目をさましますと、びっくりしたことには、あたりがすっかり明るくなっているのです。
日下部左門
ああ、わしはねむったんだな。しかし、あんなに気をはりつめていたのに、どうして寝たりなんぞしたんだろう。
 左門老人はわれながら、ふしぎでしかたがありませんでした。
 見ると、明智探偵はゆうべのままの姿で、まだスヤスヤとねむっています。
日下部左門
ああ、助かった。それじゃ二十面相は、明智探偵におそれをなして、とうとうやってこなかったとみえる。ありがたい、ありがたい。
 老人はホッと胸をなでおろして、しずかに探偵をゆりおこしました。
日下部左門
先生、起きてください。もう夜が明けましたよ。
 明智はすぐ目をさまして、
明智小五郎
ああ、よくねむってしまった……。ハハハ……、ごらんなさい。なにごともなかったじゃありませんか。
といいながら、大きなのびをするのでした。
日下部左門
見はり番の刑事さんも、さぞねむいでしょう。もう大じょうぶですから、ご飯でもさしあげて、ゆっくりやすんでいただこうじゃありませんか。
明智小五郎
そうですね。では、この戸をあけてください。
老人は、いわれるままに、懐中からかぎをとりだして、まりをはずし、ガラガラと板戸をひらきました。
 ところが、戸をひらいて、部屋の中を一目見たかと思うと、老人の口から
日下部左門
ギャーッ。
という、まるでしめころされるような、さけび声がほとばしったのです。
明智小五郎
どうしたんです。どうしたんです。
 明智もおどろいて立ちあがり、部屋の中をのぞきました。
日下部左門
あ、あれ、あれ……。
 老人は口をきく力もなく、みょうな片言かたことをいいながら、ふるえる手で、室内を指さしています。
 見ると、ああ、老人のおどろきもけっしてむりではなかったのです。部屋の中の古名画は、壁にかけてあったのも、箱におさめて棚につんであったのも、一つのこらず、まるでかき消すようになくなっているではありませんか。

 番人の刑事は、畳の上に打ちのめされたようにたおれて、なんというざまでしょう。グウグウ高いびきをかいているのです。
日下部左門
せ、先生、ぬ、ぬ、ぬすまれました。ああ、わしは、わしは……。
 左門老人は、一しゅんかんに十年も年をとったような、すさまじい顔になって、明智の胸ぐらをとらんばかりです。

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