部屋の外に年とった下男の声がしました。広いやしきに召使いといっては、このじいやとその女房のふたりきりなのです。
老人が返事をしますと、重い板戸がガラガラとあいて、主人と同じようにしわくちゃのじいやが、一通の手紙を手にしてはいってきました。
左門老人は、それを受けとって裏を見ましたが、みょうなことに差出人の名まえがありません。
あて名はたしかに日下部左門様となっているので、ともかく封を切って、読みくだしてみました。
じいやが思わず、とんきょうなさけび声をたてました。それほど、左門老人のようすがかわったのです。ひげのないしわくちゃの顔が、しなびたように色をうしなって、歯のぬけたくちびるがブルブルふるえ、老眼鏡の中で、小さな目が不安らしく光っているのです。
ふるえ声でしかりつけるようにいって、じいやを追いかえしましたが、なんでもないどころか、老人は気をうしなってたおれなかったのが、ふしぎなくらいです。
その手紙には、じつに、つぎのようなおそろしいことばが、したためてあったのですから。
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紹介者もなく、とつぜんの申し入れをおゆるしください。しかし、紹介者などなくても、小生が何者であるかは、新聞紙上でよくご承知のことと思います。
用件をかんたんに申しますと、小生は貴家ご秘蔵の古画を、一幅も残さずちょうだいする決心をしたのです。きたる十一月十五日夜、かならず参上いたします。
とつぜん推参して、ご老体をおどろかしてはお気のどくと存じ、あらかじめご通知します。
二十面相
日下部左門殿
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ああ、怪盗二十面相は、とうとう、この伊豆の山中の美術収集狂に、目をつけたのでした。彼が警官に変装して、戸山ヶ原のかくれがを逃亡してから、ほとんど一ヵ月になります。そのあいだ、怪盗がどこで何をしていたか、だれも知るものはありません。おそらく新しいかくれがをつくり、手下の者たちを集めて、第二、第三のおそろしい陰謀をたくらんでいたのでしょう。そして、まず白羽の矢をたてられたのが、意外な山奥の、日下部家の美術城でした。
左門老人は、いきなり立ちあがって、じっとしていられぬように、部屋の中をグルグル歩きはじめました。
いつのまにか、老人の青ざめたしわくちゃな顔が、涙にぬれていました。
何を思いついたのか、老人の顔には、にわかに生気がみなぎってきました。
老人は部屋の外へ出て、パンパンと手をたたきながら、しきりと、じいやを呼びたてました。
ただならぬ主人の声に、じいやがかけつけてきますと、
と、おそろしいけんまくで命じました。作蔵が、あわてふためいて、その『伊豆日報』という地方新聞のたばを持ってきますと、老人は取る手ももどかしく、一枚一枚と社会面を見ていきましたが、やっぱりおとといの十三日の消息欄に、つぎのような記事が出ていました。
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明智小五郎氏来修
民間探偵の第一人者明智小五郎氏は、ながらく、外国に出張中であったが、このほど使命をはたして帰京、旅のつかれを休めるために、本日修繕寺温泉富士屋ふじや旅館に投宿、四―五日滞在の予定である。
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老人は、そんなひとりごとをつぶやきながら、作蔵じいやの女房を呼んで着物をきかえますと、宝物部屋のがんじょうな板戸をピッタリしめ、外からかぎをかけ、ふたりの召使いに、その前で見はり番をしているように、かたくいいつけて、ソソクサとやしきを出かけました。
いうまでもなく、行く先は、近くの修繕寺温泉富士屋旅館です。そこへ行って、明智探偵に面会し、宝物の保護をたのもうというわけです。
ああ、待ちに待った名探偵明智小五郎が、とうとう帰ってきたのです。しかも、時も時、所も所、まるで申しあわせでもしたように、ちょうど、二十面相がおそおうという、日下部氏の美術城のすぐ近くに、入湯に来ていようとは、左門老人にとっては、じつに、ねがってもないしあわせといわねばなりません。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!