第37話

怪人二十面相-トランクとエレベーター1-
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2020/05/28 09:02
 名探偵は、プラットホームで賊をとらえようと思えば、なんのわけもなかったのです。どうして、この好機会を見のがしてしまったのでしょう。読者諸君は、くやしく思っているかもしれませんね。

 しかし、これは名探偵の自信がどれほど強いかを語るものです。賊を見くびっていればこそ、こういう放れわざができるのです。探偵は博物館の宝物には、賊の一指をもそめさせない自信がありました。例の美術城の宝物も、そのほかのかぞえきれぬ盗難品も、すっかり取りかえす信念がありました。

 それには、今、賊をとらえてしまっては、かえって不利なのです。二十面相には、多くの手下があります。もし首領しゅりょうがとらえられたならば、その部下のものが、ぬすみためた宝物を、どんなふうに処分してしまうか、知れたものではないからです。逮捕は、そのたいせつな宝物のかくし場所をたしかめてからでもおそくはありません。

 そこで、せっかく出むかえてくれた賊を、失望させるよりは、いっそ、そのさそいに乗ったと見せかけ、二十面相の知恵の程度をためしてみるのも、一興いっきょうであろうと考えたのでした。
怪人二十面相
明智君、今のぼくの立ち場というものを、ひとつ想像してみたまえ。きみは、ぼくをとらえようと思えば、いつだってできるのですぜ。ほら、そこのベルをおせばいいのだ。
そしてボーイにおまわりさんを呼んでこいと命じさえすればいいのだ。ハハハ……、なんてすばらしい冒険だ。この気持、きみにわかりますか。命がけですよ。ぼくは今、何十メートルとも知れぬ絶壁ぜっぺきの、とっぱなに立っているのですよ。
 二十面相はあくまで不敵ふてきです。そういいながら、目を細くして探偵の顔を見つめ、さもおかしそうに大声に笑いだすのでした。
明智小五郎
ハハハ……。
 明智小五郎も、負けない大笑いをしました。
明智小五郎
きみ、なにもそうビクビクすることはありゃしない。きみの正体を知りながら、ノコノコここまでやってきたぼくだもの、今、きみをとらえる気なんか少しもないのだよ。
ぼくはただ、有名な二十面相君と、ちょっと話をしてみたかっただけさ。
なあに、きみをとらえることなんか、急ぐことはありゃしない。
博物館の襲撃しゅうげきまで、まだ九日間もあるじゃないか。まあ、ゆっくり、きみのむだ骨折りを拝見するつもりだよ。
怪人二十面相
ああ、さすがは名探偵だねえ。太っぱらだねえ。ぼくは、きみにほれこんでしまったよ……。ところでと、きみのほうでぼくをとらえないとすれば、どうやら、ぼくのほうで、きみをとりこにすることになりそうだねえ。
 二十面相はだんだん、声の調子をすごくしながら、ニヤニヤとうすきみ悪く笑うのでした。
怪人二十面相
明智君、こわくはないかね。それともきみは、ぼくが無意味にきみをここへつれこんだとでも思っているのかい。ぼくのほうに、なんの用意もないと思っているのかね。ぼくがだまって、きみをこの部屋から外へ出すとでも、かんちがいしているのじゃないのかね。
明智小五郎
さあ、どうだかねえ。きみがいくら出さないといっても、ぼくはむろんここを出ていくよ。これから外務省へ行かなければならない。いそがしいからだだからね。
 明智はいいながら、ゆっくり立ちあがって、ドアとは反対のほうへ歩いていきました。そして、なにか景色でもながめるように、のんきらしく、ガラスごしに窓の外を見やって、かるくあくびをしながら、ハンカチをとりだして、顔をぬぐっております。

 そのとき、いつのまにベルをおしたのか、さいぜんのがんじょうなボーイ長と、同じくくっきょうなもうひとりのボーイとが、ドアをあけてツカツカとはいってきました。そして、テーブルの前で、直立不動ちょくりつふどうの姿勢をとりました。
怪人二十面相
おい、おい、明智君、きみは、ぼくの力をまだ知らないようだね。ここは鉄道ホテルだからと思って安心しているのじゃないかね。ところがね、きみ、たとえばこのとおりだ。
 二十面相はそういっておいて、ふたりの大男のボーイのほうをふりむきました。
怪人二十面相
きみたち、明智先生にごあいさつ申しあげるんだ。
 すると、ふたりの男は、たちまち二ひきの野獣のようなものすごい相好そうごうになって、いきなり明智を目がけてつき進んできます。
明智小五郎
待ちたまえ、ぼくをどうしようというのだ。
 明智は窓を背にして、キッと身がまえました。
怪人二十面相
わからないかね。ほら、きみの足もとをごらん。ぼくの荷物にしては少し大きすぎるトランクがおいてあるじゃないか。中はからっぽだぜ。つまりきみの棺桶かんおけなのさ。このふたりのボーイ君が、きみをいま、そのトランクの中へ埋葬まいそうしようってわけさ。ハハハ……。

さすがの名探偵も、ちっとはおどろいたかね。ぼくの部下のものが、ホテルのボーイにはいりこんでいようとは少し意外だったねえ。

いや、きみ、声をたてたってむだだよ。両どなりとも、ぼくの借りきりの部屋なんだ。それから念のためにいっておくがね、ここにいるぼくの部下はふたりきりじゃない。じゃまのはいらないように、廊下にもちゃんと身はり番がついているんだぜ。
 ああ、なんという不覚でしょう。名探偵は、まんまと敵のわなにおちいったのです。それと知りながら、このんで火の中へとびこんだようなものです。これほど用意がととのっていては、もうのがれるすべはありません。

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