ニコリ、と微笑んだジョングク。それはあまりにも、恐怖心を植え付けるものだった──
テヒョンの太腿を掴む手に、ぎゅっと力が篭もる。顔を顰めて痛がるテヒョン何て目にもくれず、男は苛ついた様子で駄弁り始めた。
ゴツゴツとした指先が、テヒョンの柔肌をちぎるように攫んだ。ジョングクとは違って、不整形な爪が脚を傷付ける。痛い、痛い、と男の腕を払おうとするテヒョンの眼は、血が滲んだように充血していて…。ジョングクが憤怒の沸点に達するには、充分な光景だった。
本当は今にでも殴り掛かりたかった。だが、テヒョンが怪我をするリスクを背負ってまで、怒りを拳に乗せるのはどうしても納得いかなかったのだ。ジョングクは怒涛の庇護欲をグッと抑えて、滔々と述べ続ける。
これが本当にハッタリなら、ジョングクは随分頓知のきく人であろう。姑息な手段、と言われても仕方ないが、このまま目の前で人がレイプされるのを黙ってみるぐらいなら、善な行為である。
男はその裏をかいて焦りながら声を荒あげた。怒鳴り散らせば何とかなるという、如何にも単細胞な奴だ。短絡的。これくらいの奴ならばジョングクだって掌で転がせる相手だと、この時点で確信した。
それで本当に人工的な光が射し込んで来るのだから、これにはテヒョンも驚く。まさか、本当に警察沙汰になったのだろうか?男だけではなく、素肌を露わにされたテヒョンも息を殺す。
言っている事に対して笑みをトッピングしてくるジョングク。その怒りを可視化するには、表情を見るのが一番最速である。そしてライトの光でジョングクの顔半分が影になった時。
男は遂に怖気付いて、全力疾走で逃げて行ってしまった。最後まで後味の悪い台詞を残す奴だ。だがそれと同時に、ジョングクは目を瞠りもした。何故なら、抱えられていたテヒョンは支えてくれるものが無くなって、コンクリートへ垂直に落下して行ったからだ。流石に受け止めきれる程の反射神経とスピードは持ち合わせておらず、濁った音がテヒョンを唸らせた。
床に散らばった服をいつの間にか回収して、取り敢えず、とテヒョンの下半身にジョングクの上着が被せられる。安堵感のある、落ち着く香り。言葉では表せないようなジョングクだけの香りが、テヒョンは好きみたいだ。だって、急に鼻がツーンと痛くなって涙腺が熱くなり始めたのだから、間違いない。
安心した。
ずっと自制してきていた恐怖。それが彼の香りで全て開放されてしまった。溢れ出る涙。それをジョングクは割れ物を扱うように、優しく、優しく拭き取って行く。震える手や足も、少し腫れた唇も。テヒョンの受けた傷は、予想以上に大きいものだろう。それを微力ながらも緩和する如く、包み込むようにテヒョンを抱き締めた。
嗚咽するテヒョンの背中を優しく摩るジョングク。どこまでも軟化されて行くテヒョンの心は、泡沫の如く平然さを取り戻して行った。それを意図も簡単に熟すジョングクもまた恐ろしいが、今は盲目しておきたい所である。
そして、肝心なライトの正体。それは警察でも何でもなく、ただの通りすがりの老人。巡回しに来たのは本当だろうが、何の資格も持っていない老人には征服力もない。精一杯なテヒョンが気付くことはなかったが、ジョングクは口許に指をそなえて、その老人にこう言った。
眉根を寄せて悪戯に微笑んだジョングク。老人は咽び泣くテヒョンをジョングクの腕から垣間見ると、いろいろ察したらしい。ただでさえ細い目を緩ませて、和やかに通り過ぎて行った。
赤み帯びた眼をゴシゴシと手首で擦るテヒョンの腕を、優しく制止するジョングク。今になって冷静さを取り戻したのか、テヒョンは意地にも顔を俯かせるだけ。耳まで熱を溜まらせて、きっと赤い果実のように赤面しているだろう。単にいうと、とても恥ずかしい。
けれど、ジョングクはそれが可愛らしくて仕方なかった。百面相のように短期間で変わるテヒョンの表情を知れたジョングクは、無意識に嬉々とした気持に溢れていたのだ。
二人で活気高い嬌声が聞こえてくる道を通り抜け、ようやく話し合える環境が整った。色々と双方聞きたいこと、言いたいことがあるだろう。まずテヒョンは、ジョングクが何故こんなにも治安が悪いところに訪れたのか。それが大層気になっていた。
あのままジョングクが来てくれなければ、完全に犯されていた。貞操観念が狂った男に貫かれるなんて、ゲイでも何でもないテヒョンからすればトラウマである。だから、本当にジョングクは恩人だ。感謝してもしきれない。だから気になるではないか。「あの」ジョングクが、こんなゲイの溜まり場に来るなんて。
そしてまた、テヒョンも近道で通っていた。テヒョンは、「俺もなんだ。友達のバーに行こうと思って」と相槌を打った。行先まで同じであるなんて、とんでもない偶然だ。それを聞いたジョングクは「お酒苦手なのに、バー何て。何かありました?」と、一番訊かれたくない所を滔々と問いてくる。テヒョンは分かりやすく、「ぃ、いやっ?!友達に会いに行こうと思って。」と、少しだけ嘘を吐いた。流石に「ジョングクに苛まれた結果」とは言える訳がない。そこから二人は、波長良く意気投合して行った。馴染みの好きな食べ物から始まり、好きな映画、ブランド。趣味に、近状報告まで。それはそれは本当に話が弾んで、お互いその「バー」何てとっくに通り過ぎるぐらいに。
その夜、ジョングクはテヒョンを「美しい人」と言った。街の街灯が照る下で、テヒョンの顔を真っすぐ見詰めながら。その時の表情が、あまりにも、あまりにも格好良かった──
またもや机に突っ伏しているテヒョンだが、今度は店でも何でもなく、その美人さんの我がホームであった。実はあの後、じゃあまた今度。となった訳では無かったのだ。まだ晩御飯を済ましていなかった為に、テヒョンとジョングクは一緒に飲食店に寄って帰ったのだが…。
お世辞なしで、溶けるかと思わされた。と言っても、行った場所は普通のレストラン。本当にそこら辺のファミレスだ。だが着眼点はそこじゃない。そうではなく、注目するべきはジョングクである。
流石、賞を取った男であった。もてにもてなされて、危うく自分の立場を勘違いするところだったのだから。「もしかして、俺は王様か何かなのだろか?」と。何をするにあたっても、ジョングクが世話を焼いてくれた。席に坐るときはエスコートされて、飲み物までいつの間にか目の前に置いてある。店員、マジでいらない。何なら色々知らぬ間に聞き出されて、カロリーやら隠し味やら、大抵の作り方なら知ってるので~、とか言ってベストなクッソうまい味付けまでしてくれた。
そして妖しげに腫れたテヒョンの目に、ジミンは少し咎めた顔をした。唇もふっくらと赤み帯びていて、実に妖艶であったからだ。
ジミンがカメラを付けて、スマホを目の前に突きつけると、テヒョンはほんわりとした顔をより赤面させる。それでファミレスに行ってきたとは、随分いい度胸である。
テヒョンの話によると、だ。ジミンの働いているバーへ行く途中、男に路地裏まで連行され、抵抗する暇もなく服を脱がされた。だがしかし、危機一髪でジョングクが助けに来てくれたお陰で、貞操は破られずに済んだ。だそうだ。それを聞いたジミンは頭を抱えて、色々言いたい事を簡潔にまとめようと顔を顰める。自分の家なのに、何故か居心地の悪いテヒョン。目がちらちらと泳いで、随分と落ち着きがない。
さて、テヒョンモンペのジミンから、お説教タイムである。存分に愛の籠ったお叱りを受けましょう。
何か、思ってたのと違う。
焼け焦げるように身体が火照り、目の前で分かりやすく困惑しているジョングクが、これまで以上に眉根を寄せている。あまりにも扇情的なテヒョンの姿に、その要求を受け入れるか、受け入れないか、頭が痛くなる程迷っていた。もしここで頷いてしまえば、今後の関係に影響が出るのは間違いない。それが嫌なら、我慢しなければならない。冷たく振り切ってでもだ。だが、このまま置いて帰ってしまえば、テヒョンはどうなるだろうか。間違いなく、欲求に侵食されてしまうに違いない。
ジョングクは奥歯をギリ、と噛み締めると、ネクタイを乱雑に緩めた。
数時間前
ジミンの説教を尽く受けて数日。まさかのパーティーに招待、いいや、正確に言うならば連れてこられてしまったテヒョン。何故凡人なテヒョンが、こんな常識外れのパーティーに来ているのか。ここまでの過程を何度蘇しても、納得のいく答えは全く出てこない。飲み物や食べ物もろくに口を付けれやしないし、常に毛が先立っているからか無駄に疲れる。テヒョンはガヤガヤと騒がしい会場から一旦席を外すと、直ぐに携帯の電源を起動させた。しばらく経って液晶が点滅すると、慣れた手つきで「ジミン」の名前を押す。するとコールが何度か鳴るも、直ぐに応答された親友の声。その速度からして、本当に忙しいのだろうか。
本来はジミンが来るはずだったパーティー。それを名前まで偽装して来るなんて、何故こんな頼み事を受けてしまったのか謎で仕方がない。あの時の俺はどうにかしていたのだ、とテヒョンは壁に頭を打付けると、その場にズルズルとしゃがみこんでしまった。こんな不条理過ぎるパーティーに参加した理由。それは、ただ単に釣られたのである。
『─テヒョンイの好きなアーティストのチケット、手に入ったんだけど。行く?』
本当に自分が情けなくて仕方がない。掌で上手く転がされて、直ぐに承諾したのが馬鹿だったのだ。このパーティー。怪しげな部屋まで設備されており、女が寄って集って誘惑してくる。想像もしたくないが、盛られた奴はそこでワンナイトに違いない。人が密集して喉はやたらと渇くのに、何もかもが怪しくて飲み物すらまともに飲めないのだ。挙句の果て、テヒョンが替え玉だと知れたら一環の終わりである。早く本物が来てくれなければ、最悪テヒョンだって盛られる可能性は十分にあった。
だがその時。絶望の淵に追いやられたテヒョンへ、ある天使が手を差し伸ばしたのだ。
好印象で、爽やかな声色。だけど、少し低くて男らしい。テヒョンの、大好きな声。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!