秒針が速くなった気がした。困惑もしたけれど、それよりももっと、嬉しいと思ったからだ。自分から距離を取っておいて、こんな気持ちになるなんて、ちょっと、身勝手かもしれない。でもどんな形であれ、何だかジョングクに求められている気がして、嬉しかったんだ。だから…、素直に喜んで、良いのかな? さっきまで落ち込んでいたのに、こんなにも簡単に嬉しくなるなんて、何だかちょっぴり恥ずかしいけれど。でもこれって、嫌じゃない…って事だよね?
テヒョンが、静かに息を呑む。
──会いたい。
突発的に思った。迷いなんか無くて、それは揺るぐ事のない確固な気持ち、意思としてテヒョンを高揚させる。会いたくて、会いたくてしょうがなくて、でも、自分からじゃ嫌だ。って云う、ちょっとした我が儘な気持ちもあって。それが自分を今まで苛ませてきた、って言えば違うけれど、でも、一瞬でこんなに気持ちが弾むなんて、俺って意外と単純だったりするかも。だけどただ今は、ジョングクの存在が──殊更愛おしいんだ。
ピタリ、と指先が止まる。ジミンがテヒョンの困惑した後ろ姿を見て何だか楽しそうに笑うが、多分それは見当違いだ。そうではなくて、必然に辿り着いた気持ちに、テヒョンは酷く動揺していた。何故、何の躊躇もなく「愛おしい」と思ったのか、そこまでの経緯が清らか過ぎて、心臓が半狂乱になっているのである。
はぁ、と溜息が吐かれた。勿論、それは電話を切った後から来る虚脱感と云うか、満足感と云うか、安堵感と云うか…? 何方にせよそんな所から来ている。そしてテヒョンは只今、複雑な気持ちで脳のみそまで支配されているのであった。有耶無耶な、固形ではないそのスモーク。言うならば、戸惑い、と云われる状態だ。
ジミンが、思わず治安の悪い声を出してしまう。何故、そうなるのだろうか、とお気持ちは全国民が同じである。それに友達として好きなら、ジミンだって対象が同じになるではないか。けれど感情的に、それはlikeでは無く、圧倒的loveの方。それを、ジョングクは友達として好き、で丸め込めるのは簡易すぎると思うのだ。だが、肝心なテヒョンは全くその事に気付いていない。何なら、納得する始末だ。
そしてその日、テヒョンはジミン宅から強制退場させられる羽目になったのであった。テヒョンはブーブーと文句を言っていたけれど、でも、何だかジミンの気持ちも理解出来る気がする。これはもはや、遅鈍だ。
予定よりも早く着いてしまったテヒョンは、先に頼んでいたイチゴバナナを愚痴りながら堪能していた。気分はあまり良くないけれど、イチゴバナナは美味しい。どうしてジミンがあんなに憤怒していたかは未だに分からず、テヒョンも少しだけムシャクシャとしていた。これからジョングクに会うのだから、一刻も早くこの気持ちとお別れしないといけないのに。けれど、怒りと云うのは執拗な執着性があって、まるで接着剤みたいなのだ。心理の裡からは、なかなか消えてはくれない。胸に紙を詰め込まれたみたいに、何だか通気性が悪いというか。そんな感じである。
あぁ、思い出したら尚更イライラしてきた。
テヒョンが、咄嗟に口を噤む。反射神経が飛び上がって、ジョングクを見詰めるテヒョンの顔は、如何にも仰天としていた。そして何より、ムシャクシャな発声をした途端に現れるなんて、明らかにタイミングが悪すぎる。テヒョンが急いで弁解しようとするけれど、何も言葉が出てこなくて、口が魚みたいにパクパクするだけである。
ジョングクが微笑んだ。ちょっと満足そうなテヒョンが、恥ずかしそうで可愛らしい。恥ずかしいのなら、別に言わなくてもいいのに。慣れない事をしたお蔭か、挙句にはジョングクから少し笑われてしまう始末である。テヒョンも、流石にタイミングを間違えた事に今更気付く。
ジョングクが、深々と頭を下げた。テヒョンは、いきなりの事で酷く動揺してしまう。互いに席に着いて早々、こんな展開になるなんて、少なくともテヒョンは想像していなかった。頭が上げられると、ジョングクは続けて吐露し始める。
聴いて信じられなかった。まさか、ジョングクが謝罪してくる何て、悩んでいた何て、全く思っていなかったからだ。けれどジョングクは、目の前で豆鉄砲を食らっているテヒョンに、真摯に謝罪の気持ちを示している。これは、夢ではない。
顔が、熱い。けれど、本当の事だったから。本当に、ジョングギなら良いと思ったから。だから、もっと恥ずかしくて。驚いた顔を目の前で繰り広げているジョングギには、俺はどんな風に映っているんだろう。顔、赤くなってるのかな。そうだとしたら、もっと、恥ずかしい。何でこんなにジョングギにはドキドキするのか。いくら考えてもそれだけは分からなくて、だから、もっとドキドキして。
嗚呼。ねえ、何か言ってよ。変な事言ってるっていうのは分かってるけど、でも、だからこそ、この沈黙が凄く怖いじゃんか──
テヒョンが、面映ゆそうに笑った。頬に含羞の色を浮かべて、その綺麗な瞳がジョングクを優しく見詰める。そして、ジョングクからほっと溜息が洩らされた。自分の行動が無責任だったとジョングクは言ったけれど、テヒョンからすれば、こんな優しい人と夢で乱交した事の方がもっと重大である。死んでもそれだけはカミングアウトしたくない事実だ。
『あぁ。大丈夫ですよ、気にしていませんから。後ろには手出してないので、安心してください。』
それじゃあ、無駄に俺が意識してるって思い込んでたのも勘違いって事? でも、ジョングギの意識は「罪悪感」であって、俺は、俺は違う。
あれ。俺は、何であんなにモヤモヤしていたんだろう?
ジョングギと同じく、罪悪感や悪循環に縛られていたからだろうか。ううん、違う。だって、あのモヤモヤはそんな物じゃなかった。それに、ジョングギから電話を貰って凄く嬉しかったし、何処かで安心していたじゃないか。あのパーティーの朝、自分だけが無駄に意識していると思ったら、何だか情けなくて、悲しくて、悔しくて。だからジョングギといきなり距離を感じてしまった訳で…。でもそれって、あんなコトをした後だったからじゃないの? でも、じゃあ俺は何であの時、あんな事を言ったんだろう。
『執事ってさ、…何でもやるのかな。それが例え恋愛関係じゃない人でも、想いが無くても…、そういうコト…頼まれれば、受け入れちゃうのかな…。』
恋愛、関係…。そう、だよ。そうじゃないか。普通、あんなコトをするのは恋愛関係にあたる、所謂「恋人」がする行為で。でも、俺とジョングギは恋人でも何でもない、強いて言うなら「友達」だ。だから、それが悲しくて…? ん? 何で友達であることが悲しいんだよ。駄目だ。今考えても全然分からない。今は、只この時間を楽しまなくちゃ。俺は、もう無くなりかけていたイチゴバナナを、気を紛らわすみたいにジューッと仰いだ。
前々から気になっていた事だった。親近感のない職業の中でも、とりを飾る執事。そんな職業を本業にしている人が目の前に居るのだ。折角だし、この機に訊いておきたい。
キャンパスに染み込んでいるインクの上に、また黒いインクが落ちていた。水彩絵の具みたいに、じんわりと広がっていくそれ。そのインクの上から白い絵の具を塗りつけても、奥深い部分は黒に染まりきっている。まるで、もう後戻りは出来ないと言っているみたいだ。
普通、執事と顔見知りになる何て極稀だと言い切れる。そもそも、そうやって主人をもてなす画だって、人工的な技術で作り上げたものでしか見た事がない。所謂、アニメや漫画だ。けれど、本当に存在していた。庶民とは一切縁が無いと思っていたのに、そんな事、全然なかったと言える結果だ。冷静に、俯瞰的に見て、やっぱりジョングクって、複雑な立ち位置に存在している気がする。
ジョングクの言う「旦那様」が、楽しそうに笑った。そして、その旦那様の娘。「お嬢様」が、まともに取り扱ってくれない父へ腹を立てるが、「奥様」は意外と真剣に考えているみたいだ。少女漫画に出てくる執事とお嬢様との恋とは、かなりかけ離れたイメージである。お嬢様も、あと半年もすれば大学生だ。その内、成人してそのまま結婚、何て云う学生結婚もあり得そうな話。だがこれも、ジョングクの気持ちがあればの話で。けれど、生みの親たちが親バカのパターンだとしたら、少し苦労しそうな話である。
日が暮れ始める頃。ジョングクとテヒョンは、そろそろ解散する体制に入っていた。旦那様たちの夕食が近いらしい。蒸し暑い中だしジョングクが送迎を誘ってくれたが、人を招くような家の映えでは無い為に、ここは気持ちだけ受け取っておく事にした。と言うのも、テヒョンは海外旅行やブランドの服を集めるのが好きで、食って寝ていければいい「家」は、築何十年の木造建築に住んでいるのだ。だから床抜けしている所もあるという、もはや小屋寸前の状態なのである。
そして2人は、各々の帰り方で帰途に着いた。
お嬢様は納得しない様子で頷いていたけれど、ジョングクは一切嘘など吐いていない。実際テヒョンは男だし、まあ容姿は女負けの美貌だけれども。それでも、そこまで話す理由が無かった為に、ジョングクはそれ以上話す事はなかった。お嬢様が、ジョングクの袖を弱々しく握る。
ジョングクが、振り返って困った様に笑った。それはあまりにも、幸せそうと言うか、精一杯というか、夢中というか。きっと本人は隠しているつもりだろうけど、想いよりも表情の方が先を走っている。奥様に呼ばれたジョングクの後ろ姿を見て、お嬢様は呟いた。
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テヒョンが、またまた開店前のバーでジミンと対談していた。もはや、お悩み相談室と化してきている。テヒョンによると、カフェで海に行く約束をしてきたらしいのだ。散歩程度とかではなく、普通に海でキャッキャッと泳ぐ、あれだ。
去年の夏。ジミンとテヒョンが海に行った時の事だ。ご存じの通り、テヒョンの体つきは少し妖艶な体つきをしている。と、いう事は、異性同性限らず、言い寄ってくる不束者が多数居たわけで。泳ぐとかの以前に、ジミンがテヒョンの警護をする一日で、その日のビーチ生活は終わってしまったのだ。そして今年も同じことを繰り返しては意味がない。今度は肌の露出をなるべく抑えて行かなければ、ジョングクもジミンと同じ羽目に合ってしまう。
と、いう事で。テヒョンはジミンの同行につき、ジョングクと一緒に、安全性第一の水着を買いに行く事になりました──
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。