第13話

綻ぶ面影(弐)
9,600
2022/08/18 06:07
 あの日から三日が経つ。ベッドに体を寝かせても数秒後にはじっとしているせいで記憶がフラッシュバックされ、充分な睡眠なんて出来やしなかった。そりゃあ今までにもキスはしたことがあったけれど、それは事故というか仕方なかったというか、そういう雰囲気だったから恥ずかしくなかったのだ、多分。でもあのキスは違う。あの時はする必要なんてなかったし、いや今までもしなくてよかったけど、でもあの時はキスする雰囲気じゃなかったのにキスされた。でも「何でいきなりそんな事してきたのだろう」と、何度考えても答えは出なくて、海の日まで悶々と考えていたら見事にタイムオーバーでシーデーを迎えてしまったのだ。
 ビキニ、浮き輪、ラムネ、ボート、砂浜、海岸、海。ここは正しく、夏のイベント会場のシー! 結局ダサい水着から逃れ、優しいジンお兄さんから貰った水着で参戦したテヒョン。もちろん親友の長いお話をちゃんと聞いて、ロングパンツもパーカーも着てきた。もうこれで文句を言われるなら、この先永遠フルシカトとテヒョンは既に忠告済みである。だが問題はそこではない。とてつもなくそこではない。
テヒョン
テヒョン
お、お、おお、おはようジョングギャ…っ、い、今のは噛んでないっ!
ジョングク
ジョングク
大丈夫、ですか?
成人男性キムテヒョン。あの夜のキスからとても気まずくて、顔すらまともに見れません!
 テヒョンは噛んでしまってジリジリとする舌に「うぅ……」と顔を歪めた。大怪我も痛いけれど、地味に怪我する痛みも普通に痛い。
テヒョン
テヒョン
いだい……
ジョングク
ジョングク
やっぱり噛んだんですね。血の味はしますか?
テヒョン
テヒョン
ううん、しにゃい
ジョングク
ジョングク
なら大丈夫です。すぐに治まりますよ
テヒョンは人生初めてのリムジンであの日以来ジョングクに会うものだから、本当に酷く緊張していた。リムジンの中がこんなにも豪華で広いなんて全く知らなかったし、そんな空間にジョングクと二人きりなんて開始三秒から生息させる気がない。流石長者番付五位内に入る人の執事である。テヒョンはてっきりジョングクが運転するのだと思っていたが、まさかの運転手がいて驚いた。が、何だか素直に「すご!」と驚くのも恥ずかしかったので、ポーカーフェイスで海までご到着された。
ジョングク
ジョングク
そろそろ出ますか?
窓から様子を覗っていたジョングクが、人気が少なくなってきた頃に移動を切り出した。テヒョンは緊張気味に「うん」と返事をしたが、頭の中では「やばい」の文字がダラダラダラダラと流れていた。一応途中までは着替えていて、海パンなんかは更衣室で着替える予定だが、冷静に考えてジョングクの前で薄い布一枚姿になるなんて恥ずかしすぎるのではないだろうか。今はズボンを穿いているからいいものの、後々ワイドパンツ君から海パン君に変えなければならない。そうしたら脚が見えてしまうわけだから態々薄いロングパンツの水着を着てきたわけだけれども、正直に言うとクソ暑い。けれど脚の露出は厳禁と言われているし、やはりここはグッと我慢してロングパンツ君と海パン君でシーイベントを楽しまなければならないのだろう。美貌に恵まれすぎた故の結果なのか、はたまた親友が過保護すぎてこうなったのか、きっと第三者なら「どちらとものせい」なんて言ったりするのかもしれない。実際ジョングクに訊いてみれば、愛想笑いをしながら「私は微笑ましくて楽しいと思いますよ」とか、柔軟に返事をされそうだ。
ジョングク
ジョングク
今なら皆さんビーチに行ってるので、着替えるなら今がいいかもしれません
テヒョン
テヒョン
じゃ、じゃあ行こう。うん、行ける。行けるよね……
それは自問自答だろうか。朝から様子がおかしいテヒョンに、ジョングクはやや困惑気味で外に降りる。
ジョングク
ジョングク
足元気を付けてくださいね
テヒョンは決してお姫様でも、高貴なお方でもない。けれどジョングクがいちいちもてなしてくれるものだから、これも違う意味で緊張するのだ。今日は多様な感情が一気に発生していて、普段のポンコツぶりが殊更目立つ。生まれたての小鹿でもない癖に足をがくがくと震わせて歩行を努めるテヒョンは、たったちっぽけな段差にだって大袈裟なほど足を踏み外した。
テヒョン
テヒョン
別にこけたくて転んでいるのではない。何ならこの後の羞恥心とか有名な古墳並みに莫大だし、顔面を好きで地面に打ち付ける趣味は持ち合わせていない。テヒョンが「ひぃいっ!」と絶対にお決まりな展開になるであろう未来にハラハラしていると、やはりジョングクの腕が即座に伸びてきて顔面強打を阻止された。天然なテヒョンでも最近分かってきたのだ。ジョングクが半径1m以内にいれば、テヒョンは絶対に安全だということを。触れられた部分は皮膚の下に長々と張っている膜に直通な接触感覚をくれるけれど、ジョングクを意識対象とした途端にそれへ敏感になってしまうのは何故なのだろう。ジョングクの指の小さい動きですらテヒョンには大事だ。
ジョングク
ジョングク
大丈夫ですか?
と、テヒョンの様子を窺うジョングクに対して、やはりぎこちなく「ありがとう」と礼を言うポンコツ美男子。何だかいきなり距離が疎遠になったみたいで、お互い気まずくなってしまう。
ジョングク
ジョングク
とりあえず行きましょうか
テヒョン
テヒョン
だ、だね、うん
こんな態度じゃジョングクを傷つけてしまうと分かっているのに、何故か無駄なバリケードを張ってしまう。前までは何ともなかった自分の変化に着いていけないまま、テヒョンはジョングクの知り合いが経営しているという海の家へ向かって行った。

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