第29話

fallen Angel(堕天使)
16
2019/06/15 02:05
「幸を与えたまえ 
願い叶えたまえ
私のこの詩が愛の詩が世界中に届きたまえ
そして誰もが愛に満ちて幸せになれ――、あっ慎ちゃん、私のライブも観に来ないで、キャキャ、久し振りに逢いにきたら、また朝からそれを観てる」
「彰子、俺はクレヨンしんちゃんか?それに何度言えば判るんだ。この時間帯だけは邪魔をするなと言っている筈だが」
苛立ち気味に振り返りもせずに慎ちゃんが応えた。もう、いつもこうなんだよな。
同日、京都ブライトンホテルのスイートルーム。そんな慎ちゃんの言葉に唇を尖らせ頬を膨らませた。スピーカーから流れる音声が、この部屋には似合わない。そうなんだ、慎ちゃんはこの時間帯だけは決して誰にも踏み込ませない。私?そう特別なんだよ。あれは何時だったかな――、確か沖縄だったかな、何時ものように彼はBD(ブルーデスク)を再生しながら今のように観入っていた時だった。そろそろクライマックスに差し掛かろうとした時、コテージから入って来たのだろうか、1匹のロシアンブルーが彼の足許にまとわりついたんだ。
そのロシアンブルーをコテージから見咎めた新しい部下が、そのロシアンブルーを摘まみ出そうとした訳。ううん、決して悪気があった訳じゃない。逆に気を利かせたつもりだったんだろうね。本当は何もする必要はなかったのに、その部下から逃げるかのように、そうなの、ロシアンブルーがソファーに駆け登り、慎ちゃんの肩を越え逃げ出したんだよ。
――――ガチャーン!!ほんの一瞬だった。
本当に一瞬だったんだよ。ワインボトルが見事に部下の頭で粉々になってしまったんだよ。
「会長,対不起(ホイ ジャン,ドゥイ ブ- チ-)会長、申し訳ありません」
部下の頭から流れる血が赤ワインと混ざり床を濡らしていた。私より年下のようなその部下が、一瞬助けを願い出るような目に怯えが淀んでいた。
「還来我的地方,時日方短?是不是会説日語?(ハイ ライ ウオ ダ ディ- ファン,シ- リ-ファン ドゥアン?シ- ブ- シ- ホイシュオ リ- ユ-?)まだ俺の所に来て、日が浅いな?日本語は話せるか?」
「是。話せます」
慎ちゃんは滅多なことで怒りを表さない。但し、人間価値観に於ける裏切りに達した時と、この貴重な時間を妨害された時は、何て言えばいいかな…、そう、まるで堕天使が抗うように冷たく破壊性を表す。勿論私はそんな慎ちゃんを好きではない。それでも引き込まれるように愛してしまったんだ。
それと、人間の欲望に自身を拘束されることを最も嫌う。それが何故なのか……
「聞いていると思うが、お前達にとってはどうでもいいようなことでも、この俺にとっては誰もが入り込めない貴重な時間なんだ。この貴重な30分を汚すんじゃない」
「わかりました。ありがとうございます」
慎ちゃんの目が私に向き、治療をするように則した。バスルームに彼を連れて行き傷口を洗わせ、消毒後傷口を塗り薬で手当てをし包帯を巻いてあげたんだ。
ところで、何が慎ちゃんを其ほどに観賞するBDに固執するのか私には判らない。まして謙策することなど私達には決して許されない。
えっ、私と慎ちゃんの関係?このように私が慎ちゃんの部屋にいるんだから、関係がないと言えば嘘になるよね。只、恋人としての関係ではない。悲しいけど……。それじゃ愛し合っていないのか?「キャキャ。当然私は愛しているにきまってる」けど、慎ちゃんの場合は普通の恋人が求め合う愛でないことだけは言える。
実は、慎ちゃんの背中に刻印されたような傷痕があるんだ。長さは10cmぐらいかな、幅が2cmぐらいの痛々しい火傷痕があるんだ。それを知ったのが数年前のこと。その理由を私だけに教えてくれた。ある日、私達は天窓から陽光が射し込む部屋にいたの。場所…「う~ん、何処だろう…」深夜ヘリ(helicopter)で運ばれたから私には判らない。確かに車で移動してサンフラワーで逢うこともあれば、今日のように自分から逢いに行くときもある。
「彰子、今日からお前が俺の咎め役だよ」
「………」
悲しそうな目をしながら私に向けた言葉に、私は何て答えればいいのか判らなかった。そして慎ちゃんは上着を脱ぎ肌をさらけ出したんだ。そして、静かに私に背を向けた時、その傷痕が私の目に焼き付いたその瞬間
「ククク、どうした彰子。クク、傷痕が気になるのか。それよりも其処にある平鞭で俺の背にある傷痕に、ククク、10回打つんだ」
「何故…」
まるで陽光に浮かぶかのような傷痕、何故だろう…凄く神秘めいて映り込んだことを今でも覚えている。その時感じたことなんだけど、慎ちゃんは堕天使に思えた。透き通る瞳に悲しみを宿すその目に触れた時に、きっと人は自分の過ちに触れるかもしれないね。
「慎ちゃん…。その…、理由も判らないのに、彰子にはそんなことは出来ないよ…」
「ククク。まるでお前は駄々っ子だな」
そう言うと、お前だけに話しておく――― と言い、陽光に包まれながら慎ちゃんは静かに語り出したんだ。
「俺が、ククク、ガキの頃なんだ、ある人の家で育てられていた時のことなんだが」
そう語り始めた時、慎ちゃんは静かに天窓を見上げた。それはまるで過去の記憶に吸い込まれるように……。
「犬がいたんだよ、その屋敷に。俺はその犬に餌をあげようとしたのに、そのバカ犬は俺の手をかぶり付きやがったのさ『ガブリッ!』とな。一瞬のことで何が何だか判らなかったよ」
「………」
「それでどうしたと思うよ彰子。ククク、そのバカ犬の頭に庭の松の木の下にあった庭石をガツン!とぶつけてやったさ。彰子、タバコをくれないか」
戸惑うように私はベッド際のテーブル上のタバコに火を点け慎ちゃんに手渡した。指先が震えている私をまるで気づいていないように慎ちゃんはタバコを受け取ると
「彰子、間接キッスだな。ククク」
と笑いながらタバコを口に運び吸い出したんだ。その時私は、何故かな…慎ちゃんの言葉に救われた気がしたんだ。迷える堕天使に、私は救えるマリアになれることを私は確信したんだ。だから、慎ちゃんの言葉を不安なく受け止めてあげようと決めたんだ。
人は誰でも心の中に深い傷痕がある。それを取り除いてあげることが、私は愛だと知った。確かに彰子にも傷痕がある。けれど、慎ちゃんとは不思議な巡り合わせなんだろうな、慎ちゃんと居ると不思議に人知れず抱えた心の傷痕が和らぎ癒されている気がしてならない。本当は可哀想な人…、そう慎ちゃんのことを思うと涙が溢れてきた。
「慎ちゃん…、彰子話を聞くことにする」
そう、私は慎ちゃんの懐に飛び込もうとしている。そして、慎ちゃんもこの私に飛び込んでくれていることに気づいたんだ。
人間の愚かさ。それは自分が一番の被害者だと勘違いしていることだという。特に自分が犯した過ちを人のせいにし、その過ちを隠蔽する為に被害者面をして人を陥れる。利口な奴は自分を何たるかを知っていると慎ちゃんは言っていたことがある。
「彰子、裏があるからククク、表が華やかに映るんだ。しかし、本当の世界は、クク、裏にあることを忘れるな」
その言葉がどれほどに重く私にのしかったかもしれない。再び慎ちゃんは静かに語り出した。
「この俺が悲痛に感じるか?痙攣するその犬を引き摺り埋めてやったさ。その犬の目が、ククク、ご主人様に逆らったことに赦しを請うていたよ」
その時、慎ちゃんの目に深い悲しみを私は見逃さなかった。
「退屈凌ぎにゲームに興じる中で得たアイテムを、新たなゲームに投下する――、クク、ククク」
私には慎ちゃんが何を言わんとしているのか判らなかった。

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