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第96話

Vol.4

2002年2月6日:着工を予定している漢那ダムのため、約839,000?が返還された。この際、漢那ダムの湖水面を米軍と共同使用することを返還条件とした。

2006年5月1日:在日米軍再編に伴い陸上自衛隊との一部施設共同使用の方針が発表される。

2006年7月10日:億首ダム用地として、土地約729,000?の返還を日米合同委員会で合意した[1]。

2013年8月5日:キャンプ・ハンセン敷地内においてHH-60が1機墜落、乗員4名中1名が死亡した。この機は第5空軍第18航空団の第33救難飛行隊に所属する機だった

2013年9月:日米合同委員会は、キャンプ・ハンセンの一部返還に合意した。2014年6月30日に名護市幸喜区内の55ヘクタールを、2017年6月30日に名護市喜瀬区と許田区の計107ヘクタールを返還する計画である。なお、名護市長稲嶺進、沖縄タイムスなど、この返還を歓迎していない[2]。

飛行場から演習場へ[編集]

開設当初は飛行場としての設置であり、その目的は日本本土攻撃の発進基地という位置付けであったが『調和』によれば貨物輸送機の発着に使用されていたという。日本降伏後、金武飛行場は一時放棄されたが、1947年に「飛行場を射撃場に使用する」方針が立てられた。当時地元では薪炭向けの材木切り出しのため村有林を払い下げて復興に資する計画を持っていたため、金武、並里、喜瀬武原の区長が演習場設定阻止の陳情を沖縄民政府工務部長で金武出身の岡政保に働きかけを行った。しかし、米軍の強行により演習場としての運用が開始され、当初は小銃程度の使用だったものが、1949年になるとバズーカ、迫撃砲、野砲などが加わり、朝鮮戦争の開始によりさらに洋上に停泊する艦船による演習も追加されて大幅に拡大された。この頃同時に沖縄の基地自体も恒久化が決定されたのである。
大規模基地の建設工事[編集]

國場組が主契約者となったことで知られる恒久施設の建設は1950年代末からである。最盛期には2000名の労働者を監督して工事は実施された。

恵隆之介によれば、この大規模な拡張の前には兵舎を含む恒久施設を地元が積極的に誘致していたと言う。CTA(Central Training Area)を形成する隣接のキャンプ・シュワブと同様であった[3]。

工事計画は1958年に公表され、1959年5月15日国際入札が実施された。当初計画では予算約1100万ドルであり、後に実施された追加工事は400万ドルの契約[4]である。『國場組』社史はこれを約40億円、現在(1984年出版時)の貨幣価値に換算すれば数十倍と書いている。

『極東の城』には次のような規模だと伝えている[5]。

収容人員:海兵隊員約5000名

建物:218棟[6]

道路、駐車場の舗装:251,320平方ヤード

排水渠延長:22,935フィート

直接埋設電力線延長:39,160フィート

銅電線延長:57,260フィート

鋳鉄製水道管延長:52,290フィート

コンクリート下水管延長:46,590フィート

地下輻射暖房システムの完備

専用の水源としてキャンプ・ハンセンダムを建設

工事区域面積:約800万平方メートル

この入札は沖縄内ばかりでなく本土の業者や海外の業者も参加したが、國場組としては採算性に多少目を瞑ってでもこのプロジェクトを受注して名を挙げることとし、ギリギリの採算ラインとして1114万5600ドルの入札価格を弾き出した。しかし、1100万ドル前後が勝負と見られたため、更に15万ドル差し引く案が提案され、熟考の末社長の國場幸太郎の決断により差し引いた。結果は、1位で堂々の落札となったが、2位のフィリピンの業者とは僅か2万2000ドルの差であった。なお最高入札額は本土のある業者で1772万7554ドルであった。その後、細部を詰めてアメリカ陸軍工兵隊沖縄地域工兵隊と6月11日に契約授与の署名を手交した[7]。
ただし着工後は問題も発生した。國場組は戦後一貫して米軍関係工事を受注し続けており、米軍工事につき物のPQ(Pre-Quolification,事前審査)による施工能力、実績などのハードルも乗り越えて来ており、米軍仕様には慣れていた[8]。それでもこの工事の際米軍が求めてきた検査の厳格さは従来に無いものであり、検査官に工事のやり直しを命じられた箇所もあった。また、工事規模が大きくなったことから建設労務者と機材が逼迫し、各種技能者への手当ても高騰する結果となった。当時沖縄は基地建設ブームで島外からも業者が参入しており、國場組を含めて土木機械はリースで調達することが多かったため、このリース料も高騰した。このような要因により、國場組の工程管理と労務管理は失敗し、同社は資本金の3倍を上回る欠損を出して銀行の管理下に入り経営再建の道を歩むこととなったのである[9]。

なお、当時としてはプレキャスト・折版造りで建設されたキャンプとしては海兵隊最大のものであった。1962年10月20日、工事は完成した[5]。

この建設工事完工に連動して基地周辺には米兵を顧客とする特飲街(新開地と通称)が発達し、人口も町外から流入し急増していった。金武にて町制の施行は1980年4月1日である。

県道104号線超え砲撃訓練[編集]

かつて県道104号線越えの実弾射撃演習が実施され、その総回数は180回余りに達した。これは、復帰以降に開始された野砲による砲撃訓練であり、第1回は1973年3月30日に実施、1973年4月24日に実施した第2回より県道封鎖が実施された[10]。1996年、SACOでの日米合意によって演習の移転が決定された。

都市型戦闘訓練施設[編集]

基地の豊富な沖縄にあっても、米軍基地に欠落する機能は存在した。そのひとつが都市環境を模した戦闘訓練施設であった。この問題を解消するため1990年3月、宜野座村福山区付近戦闘訓練村が完成した。これは西太平洋で海兵隊が保有する唯一の施設である。完成当初の施設は教会、小学校、レストラン、銀行、2階建てアパート2棟の計6棟から成り、近傍にヘリパッドがある。村に通じる道路は2本である。
人質救出、全面侵攻など様々な戦術状況を想定した訓練が実施されている。建設業者にとって異質だったのは、各建物によじ登ったり、懸垂降下出来るように引っ掛けが設けられたことであり、窓の大きさは異なるものばかりであることだった。こうした工夫は海兵隊員に想定外の状況での行動を可能とするように設計された[11]。

しかし、この時の訓練施設建設に対しては地元より激しい反発があった。特に反発が激しかったのは恩納村に建設された施設で、同村は当時既にリゾート地として開発が進んでいたことも理由となっている。建設資材搬入の際県警は機動隊を投入して護衛を図った程のものであった[12]。その後、知事であった西銘順治の訪米直訴により、恩納村に建設された訓練施設は解体・撤去の方針となり、1993年7月に作業は完了した。その後、長らく宜野座村福山区付近に建設された方の施設のみが供用されてきた[13]。

米軍再編以降[編集]

2000年の選挙でジョージ・W・ブッシュが大統領になると米4軍は地球規模で米軍再編を開始し、本基地にもその影響が現れている部分がある。

陸軍複合射撃場[編集]

海兵隊の基地だが、アメリカ陸軍など他の軍も訓練に使用している。

2002年度予算において、新たな複合射撃場が建設されることが2001年12月21日、2002年9月21日~26日にかけての新聞で相次いで報じられた[14]。この施設は2005年に複合射撃訓練場(いわゆる都市型戦闘訓練施設)としてレンジ4(Range4)と呼ばれる区域に建設された。当時の政府答弁書によれば、従来レンジ16に設置していた訓練場が損耗し移設を検討していた際、陸軍が本基地とキャンプ・シュワブで分散実施していた訓練を統合・効率化するためレンジ4への新設計画が持ち上がったと言う[15]。使用する部隊は特殊部隊群第1大隊(通称号、グリーンベレー)である[16]。

しかし、当該地は伊芸地区の住宅地から300m余りの場所にあり、地元から「近すぎる」と批判が出されていた[17]。このような地元からの抗議を受け、完成直前に町村信孝外務大臣は再移設の方針を明示し[18]、移設に向けた動きが始まった[19]。
米軍再編以降[編集]
2000年の選挙でジョージ・W・ブッシュが大統領になると米4軍は地球規模で米軍再編を開始し、本基地にもその影響が現れている部分がある。
陸軍複合射撃場[編集]
海兵隊の基地だが、アメリカ陸軍など他の軍も訓練に使用している。 2002年度予算において、新たな複合射撃場が建設されることが2001年12月21日、2002年9月21日~26日にかけての新聞で相次いで報じられた[14]。この施設は2005年に複合射撃訓練場(いわゆる都市型戦闘訓練施設)としてレンジ4(Range4)と呼ばれる区域に建設された。当時の政府答弁書によれば、従来レンジ16に設置していた訓練場が損耗し移設を検討していた際、陸軍が本基地とキャンプ・シュワブで分散実施していた訓練を統合・効率化するためレンジ4への新設計画が持ち上がったと言う[15]。使用する部隊は特殊部隊群第1大隊(通称号、グリーンベレー)である[16]。 しかし、当該地は伊芸地区の住宅地から300m余りの場所にあり、地元から「近すぎる」と批判が出されていた[17]。このような地元からの抗議を受け、完成直前に町村信孝外務大臣は再移設の方針を明示し[18]、移設に向けた動きが始まった[19]。代替施設完成後、レンジ4の施設は海兵隊へ移管する方針である旨が外務省より説明された。海兵隊移管後の取扱いについては「米軍が実弾射撃訓練を行うことは想定されていない」との答弁がなされている[20]。 なお、レンジ16の代替施設が完成するまでは、レンジ4の施設を暫定使用することとされた。2005年にこの施設での訓練が開始された際には日本の民主党も抗議の談話を出しており、名代はネクスト防衛庁長官前原誠司である[21]。この施設については代替施設の建設が進められ、2009年7月末に完成、沖縄防衛局より金武町に報告された[22]。 レンジ4の訓練施設は海兵隊に引き渡されたため、その後も使用の際抗議が行われている[23]。 複合射撃場の概要については別項を参照のこと。
~以下省略~

「吉岡さん、アンタらしい場所やな。どうです、この土地には慣れましたかな」
成る程、長岡(こいつ)は既に刑事の目ではないな。何と言えばいいのだろうか…、卑しさに何等の恥辱を感じていないと言えばいいのだろうか。
「組対の長岡さんでしたね。そう言えばこのN県は確か村雨組の地盤だそうですね」
「よう知っておりますな」
そう言うと長岡は胡散臭そうに煙草を取り出し火を点けた。
「dunhillですか?良い物をお持ちですね」
「ふん。良いも悪いもワシ等なりに無理していますわ」
そう言うとジロリと私を見据えた。その目には刑事独特の疑念の色を浮かべていた。
「処で吉岡さん、アンタは何を対象にしているんや?と言っても答えてくれんわな」
「………」
「まぁワシ等の邪魔だけはしないでくれ」
「邪魔?」
コイツは何を私から探ろうとしているんだ?油断のならない男だ。しかし邪魔をするも何も貴方達がしくじりをしているのではないか。つい私の口許が緩んでしまった。
「ふん、何を知っているのか知らんが、ワシ等にはワシ等なりの捜査の遣り方があるんや」
「いや失礼。長岡さん時間なので勤務に戻らさせて頂きます」
私は軽く一礼をし、長岡に背を向け歩を進めたその時、長岡がネットリ絡み付くようにボソリと
「松山慎吾」
と言葉を洩らした。
「知ってるみたいやな」
振り返ると厭らしく笑っていた。
「松山慎吾?いや、存じませんね。その松山たる人物が何か」
「何でもあらへん(ない)。只の独り言や」
成る程な、村田の尻尾の先は間違いない。この長岡だろう。然しだ、東條は何を掴んでいるかだ。
「それより私から1つ伺ってもよろしいでしょうか」
「答えられる分わな」
「天心教とは」
「ウハハハ。天心教やと。悪しきを祓い天心教や」
「失礼」
ドアノブに手をかけた。
長岡の視線が私の背を舐めるように絡んでいた。
バリバリバリ――――。自衛隊のヘリが青空を飛行していた。
階段を降っていた。東條に逢うべきか…。しかし逢ってどうする?
その時だった。
「あっ…吉岡さん、お疲れ様です…」
少し伏し目がちの村田が言葉を溢した。まるで怯えているかのように。
「あのう、もしかして…」
「何の事だか判らんな」
私の言葉に安堵感をもたらしたのか、
「実は吉岡さん」
「村田君、何も言わなくていい。只一言言えば、この先は自分で答を出すだけの事ではないのか」
「……………」
「では」
私はそう言い残して再び階段を降り始めていた。
まるで伏魔殿だな、此処は。そう言えば私の上着のポケットに甘い香りがまとわるようなハンカチがあることを思い出した。東條、お前は奴に魂を奪われたのか…。その言葉が頭を過った時、
「お前こそ魂を奪われているではないか!」
もう1人の私が皮肉に言葉が放っていた。
あの時…
間違いない。チルドレン・ギャングだな。確かに何かが動いている。しかし…何の為になのか…。それと天心教に何が隠されているのか?松山、何を考えているのだ?