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第93話

Brutality
「吉岡、今話せるか?」 
私の携帯に公安主任の宮嶋から連絡が入った時、私は本部の屋上にいた。
恐れることを知らないように鹿が公道を歩いていた。
「ご無沙汰しています、宮嶋主任」
「その後はどうなのだ?いや、それよりも何かを掴めたかね?」
「引っ掛かることを申せば……」
煙草を吸殻入れに捩(ね)じ込んだ。宮嶋主任の「遠慮しなくてもいい」という言葉に私は答えた。
「現在総務課の東條彰子がマークされています」
「奴の女か。成る程、それで君はどのように捉えているのかね」
今政府の構想案が戦後レジームの脱却である。

●戦後レジーム(せんごレジーム)とは戦後に出来上がった政府の体制や制度。現代の日本では主に、第二次世界大戦における日本の降伏後、出来上がった日本国憲法を始めとする法令・政府・国体を意味する言葉として使われている。“戦後レジームからの脱却”とは、今の日本の基本的枠組みの多くが時代の変化についていけなくなったことから憲法改正をはじめとした改革を行うという事である。

「何かを掴んでいると捉えています」
「何かとは、例のことかね」
私は東條の部屋に仕掛けられた盗聴機による盗聴が妨害されたことを説明した。但し、牛見公園に於ける件は伏せていた。 「成る程。それはそうと、此方の方でも面白い情報が手に入りましたよ」
「………」
「聞かせておこう。マルチョウ(警視庁長官)の落とし所があるホテルに関連していること。詳しくはまだ判らないが、先達てのことだがね、例の奴は大変な人物と接触しているとの報告だが、聞きたいかね」
その宮嶋主任の問い掛けに何故か私の背に冷ややかな汗が流れた。
公道にふてぶてしく立ち止まる鹿に苛立つかのようにクラクションが鳴り響いた。

「某日、 横浜ロイヤルパークホテル 68F 中国料理『皇苑』にて奴は誰と逢っていたと思うかね?大したものだよ」
横浜…。一瞬私は嘔吐を催した。胃から混み上がる酸系の異物をどうにか私は飲み込んだ。
「どうかしたのかね?」
「いえ、大丈夫です」
「ならいいが、その『皇苑』で奴は柴田忠なる男と会食をしている」
柴田忠――――。確か関西山神会の次期跡目と目されている若頭の山道会々長。何故奴が…
「しかし主任、奴は当日はヤサ(居住)から動いていないとのことですが…」
「フン。だからお前をN県に配属をさせた訳ではないか。カネに穢れた刑事に、本当にこの国を委せらるれと君は思っているのではあるまいな。それとだヤクザ者の会食なんて今更珍しいことではない。その席に同席した者が誰だと思うかね」
「さあ…」
果たしてこの国は何を隠滅しようとしているのかである。
西岡なる銀流会々長が弾かれたのは紛れない事実であるが、牛見公園にしても使われた銃器は全て玩具であった。
それよりも奴は既に私の素性まで洗い出している。再び胃酸物が混み上がろうとしていた。
今何故私がこの大地にいるのだろうか――――。
感慨耽るように空を眺めた。歴史の中で我々は果たして何に挑もうとしているのであろうか…。

●朝鮮戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上段:長津湖の戦いで撤退する国連軍所属のアメリカ海兵隊第1海兵師団
中段左:仁川の空港に着陸するF-86戦闘機
中段右:仁川上陸作戦で上陸中のアメリカのLST
下段左:バルドメロ・ロペス中尉率いるアメリカ海兵隊
下段右:M26パーシング戦車の前に立つ韓国人難民
戦争:冷戦における緒戦
年月日:1950年6月25日 -(未終結 戦闘のみ停止)
場所:朝鮮半島
結果:南北分断状態のまま休戦協定が結ばれ、現在に至る
交戦勢力

国際連合軍
韓国
アメリカ合衆国
イギリス
フランス
カナダ
オランダ
ベルギー
トルコ
タイ
フィリピン
ルクセンブルク
ギリシャ王国
コロンビア
オーストラリア
ニュージーランド
エチオピア帝国
南アフリカ連邦
医療スタッフ
デンマーク
イタリア
ノルウェー
インド
スウェーデン
掃海
日本(連合国占領下) 北朝鮮
中国(中国人民志願軍)
ソビエト連邦(顧問団派遣及び物資支給)
指揮官

ハリー・S・トルーマン
ドワイト・D・アイゼンハワー
ダグラス・マッカーサー
マシュー・リッジウェイ
マーク・ウェイン・クラーク
李承晩
丁一権
白善
蔡秉徳
クレメント・アトリー
ロバート・メンジーズ
ルイ・サンローラン
エルピディオ・キリノ
フィデル・ラモス
グスタボ・ロハス・ピニージャ
タハシン・ヤズシュ
金日成
朴憲永
崔庸健
金策
武亭
毛沢東
彭徳懐
ヨシフ・スターリン
ゲオルギー・マレンコフ
戦力

590,911(国民防衛軍406,000)
480,000
63,000
26,791
17,000
7,430
5,455
3,972
3,421
1,389
1,294
1,271
1,263
1,068
900
826
44
260,000
780,000(諸説有り)
26,000

朝鮮戦争

主要戦闘・事件の一覧

北朝鮮の攻勢
甕津 -開城・ 山 - 高浪浦 - 東豆川・抱川 - 春川 - 対馬海峡 - 議政府 - ソウル1 - 注文津 - 韓国航空戦 - 水原 - 烏山 - 平沢 - 天安 - 鳥致院 - 大田 - 尚州 - 嶺東 - 黄澗 - 安東 - 河東
国連軍の反撃
釜山橋頭堡 - 仁川上陸 - ソウル2 - 282高地 - 元山上陸 - 栄州 - 定州
中共介入
温井 - 雲山 - 粛川・順川 - 清川江 - 軍隅里 - 長津湖 - 北極熊団 - ソウル3 - 原州1・2 - サンダーボルト作戦 - 砥平里 - 原州3 - キラー作戦 - ソウル4 - カレイジャス作戦 - トマホーク作戦 - 積城 - 加平
膠着
血の稜線 - 漢江 - 断腸の稜線 - 馬良山1 - 順川 - 水豊ダム - ブレイズ作戦 - 白馬高地 - 狙撃稜線 - フック高地 - ポークチョップヒル - 金城 - 沙尾川
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韓国での表記

各種表記
ハングル: /
漢字: 韓國戰爭 / 六二五事變
発音: ハングク・チョンジェン/ユギオ・サビョン
日本語読み: かんこくせんそう/ろくにご じへん
ローマ字転写: Hanguk jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon
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北朝鮮での表記

各種表記
ハングル:
漢字: 祖國解放戰爭
発音: チョグッケバンジョンジェン
日本語読み: そこくかいほうせんそう
ローマ字転写: Chogukhaebang-ch njaeng
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朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日-1953年7月27日休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。 当事国ばかりでなく諸外国が交戦勢力として参戦し、朝鮮半島全土が戦場となって荒廃した。1953年に休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され南北二国に分断された。現在も両国間に平和条約は結ばれておらず、緊張状態は解消されていない。北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突がたびたび発生している。
●概説
1945年8月15日、第二次世界大戦において日本は連合国に降伏したが、その時点で日本が併合していた朝鮮半島北部に連合国の1国のソ連軍(赤軍)が侵攻中であり、日本の降伏後も進軍を続けていた。同じく連合国の1国で反共主義を掲げていたアメリカは、ソ連の急速な進軍で朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。 その後、米ソの対立を背景に南部は大韓民国、北部は北朝鮮として建国。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、韓国軍主力が半島南部に移動していた機を見て、防御が手薄となっていた国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切った。
侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦し、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「抗美援朝軍」「志願軍」。実態は中国人民解放軍)が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達や訓練などの形で支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈した。 なお、呼称に関しては、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスでは英語でKorean War(朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)と呼ばれている。また、戦線が朝鮮半島の北端から南端まで広く移動したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。
本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。

●戦争に至るまでの経緯
終戦時の朝鮮の政治状況
1945年8月、ソ連軍の朝鮮半島侵攻という事態に直面し、アメリカはソ連に38度線での分割占領案を提示した。この境界線はアメリカ陸軍のディーン・ラスクらによって30分間で策定されたものであり、アメリカ軍の占領域に首都ソウルが含まれる事も考慮されていた。8月14日に通告されたポツダム宣言を日本は受諾。9月2日、日本は連合国に正式に降伏し、第二次世界大戦は終結。同宣言により日本は朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。ソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案を8月16日に受諾し、日本軍にはこの合意に従って降伏するよう命令が行われた。 日本統治下の朝鮮半島内では独立運動を志向する諸勢力も存在はしたが、日本の憲兵統治によって多くの人々は日本の統治を受け入れざるを得なかった。独立志向組織はむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると中華民国上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。 このような情勢ゆえに日本降伏時、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合は醸成されておらず、日本統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」であった。朝鮮人が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた。
●朝鮮建国準備委員会
朴憲永(左)と呂運亨(右)
米軍の訪問を受ける建国準備委員会の済物浦(仁川)支部
諸勢力の中でも比較的統制のとれていた呂運亨の集団は、日本降伏を見越し8月10日、密かに建国同盟を結成していた。その2日前の8月8日、参戦したソ連は8月9日に豆満江を越え、朝鮮半島に侵攻してきた。一方、朝鮮総督府は半島の突然の機能不全に動揺していた。約70万人もの在留邦人を抱え、有効な対抗勢力がないまま朝鮮全土がソ連に掌握されることを懸念し、呂に接触して行政権の委譲を伝えた。呂は政治犯の釈放と独立運動への不干渉などを条件にこれを受け入れ8月15日、日本降伏の報を受けて直ちに朝鮮建国準備委員会を結成。超党派による建国を目指した。 呂自身は左右合作による朝鮮統一を目指していた。8月16日には一部の政治犯が釈放され建国準備委員会に合流したが、その多くが弾圧された共産主義者であり、同委員会は必然的に左傾化した。9月6日、同委員会は朝鮮人民共和国の成立を宣言。その要人には李承晩、金日成、朴憲永、金九、・晩植らが名を連ねていたが、これは国内外の主だった活動家を本人の許諾なく列挙したに過ぎなかった。 一方、連合国はすでに戦時中の諸会談で、自身の主導による朝鮮半島の信託統治を決定していた(後述)。彼らにとって朝鮮人民共和国は、日本がポツダム宣言に違反し連合国の承認を経ず勝手に建てた政権と映った。また総督府も左傾化を嫌うアメリカの意向を受けて態度を変え、建国準備委員会に解散を命じるなど情勢は混乱し、さらに同委員会内部でも対立や離反が相次ぎ足並みが乱れた。9月8日、仁川にアメリカ軍が上陸。呂は面会を求めるが拒絶される。翌9月9日、総督府は降伏文書に署名し、アメリカ軍に総督府の権限を委譲。9月11日、アメリカによる軍政が開始され、朝鮮人民共和国は連合国・枢軸国双方から承認を得られぬまま事実上瓦解した。
建国準備委員会はその後も活動を続けたが、軍政庁はこれを非合法とみなした。さらに反共を掲げる右派が湖南財閥と結び、9月16日宋鎮禹をトップとする韓国民主党(韓民党)を立ち上げ、上海から重慶に亡命していた大韓民国臨時政府支持を表明、建国準備委員会を否定した。 建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治を放棄した後、行政機構として一定の機能を果たしたとする見方もあれば、突然当事者とされたことに呼応してできた組織であり、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。 朝鮮半島内で各派の足並みが揃っていない状況下、大韓民国臨時政府に弾劾されアメリカで活動していた李承晩や、ソ連の支援の元で国内で活動していた金日成を初めとする満州抗日パルチザン出身者など、様々な考え方を持った亡命者たちも次々に帰国し、独自の政治活動を展開していた。しかしこの課程で、朝鮮半島に発生した各政府はいずれも連合国全体からの承認を得られなかった。
●信託統治案
テヘラン会談
連合国による信託統治に抗議する南朝鮮のデモ

アメリカは戦前の検討の中で、朝鮮には信託統治を適用するべきと考えられていた。1942年には朝鮮半島の国民は貧しく、文盲が多いため一世代は強大国の保護と支援が与えられなければならないという報告書が出されており、これはアメリカの朝鮮半島政策の根幹となった。アメリカ大統領ルーズベルトは、1943年2月のアンソニー・イーデン英外相との対談でこの構想をはじめて明かした。1943年11月22日のカイロ宣言では、朝鮮は自由かつ独立するべきとされていたが、「しかるべき手続きを踏んで」という、信託統治機関に含みをのこす形で発表された。その後のテヘラン会談「新設する国際連合によって40年間は信託統治すべき」とし、ソ連のスターリンもこれに同意した。