第26話

Ripple(さざ波)
19
2019/06/09 00:42
平穏な日々を過ごしているようで、実のところ何かが私に押し寄せてきているがしてならない。 
「嫌だなぁ、ボーっとして。どうかしたのですか松崎検事。恋でもしたのですか」
「えっ?ああ片瀬君か。もうそんな時間?」
昼食を終えて帰ってきたのか、片瀬の声に我を戻した。デスクの時計を見やるとPM12:26を表示していた。無理だわ、今から食事に行くのは…。どうしようか―――。そんな思いが片瀬に通じたのか
「松崎検事、食事まだなんでしょ。何なら近くのコンビニで何か買って来ましょうか」
そう言ってくれる片瀬の言葉に甘んじるべきなのか思案していたが、恥ずかしくお腹の虫が鳴いてしまった。
「やっぱり。サンドイッチか何か買って来ますよ」
そう言うと私の返事を聞くまでもなく、再びドアを開け姿を消した。
そう言えば、あの日からどれ程の時間が通りすぎたのだろうか…
不安を感じた言葉と顔。今も鮮明に平野刑事の言葉が、何やら得体の知れない虫が耳奥で這うように響く。それにしても何故あの場所に…
「松崎検事、私はとんでもないモノを踏んだのかもしれない。いや踏まされたと言ってもいいだろう」
「………」
「兎に角私は島流しであれ、奴から遠ざかることが賢明との判断で左遷を承諾しました。松崎検事、この先何が起ころうと貴女は奴に関わってはならない。それを言いたくて貴重な時間を割てしまい本当に申し訳ない。この通りです」
座を改め平野刑事が深々と頭を下げたのだ。ふと私が感じたのは、平野刑事が何やら周囲を気にしている風にさえ映ったことだ。松山慎吾…、貴方には何があるの?
これも全て、あの変なFAXのせいだわ。いや…違う。
「松崎検事、フルーツサンドイッチとチョコフレーバーを買ってきましたよ」
「あ、片瀬君ありがとう。幾ら?」
「いいですよ。その代わり給料日には何かご馳走して貰いますから。今ジャスミンティーを煎れますよ」
「ふふ、高い昼食になったわね。それより片瀬君、佐渡が島の本署の電話番号を調べてくれない?」
事件なんですか――― そう尋ねる片瀬の言葉に返事することなく、私はチョコフレーバーの封を開けながら平野刑事の言葉を思い返していた。
「最後に松崎検事、Sという意味をご存知ですかな?」
私は「ええ」と答え頷いた。
「それなら言っておきましょう。我々の諜符なんですが、情報提供者を指す訳です。安月給から提供者に渡すカネもバカになりません。経費が出る訳でもありませんしな。だがノンキャリアで出世しようとするならSは欠かせない存在なのですよ。ところが松崎検事、逆に私達を監視もしくは探っている者をMと読んでいます。SMじゃないですが、これは同じ部所にいるものなのかは定かではありません。そして松崎検事、貴女方の世界にもMがいることを忘れないで頂きたい。正義など、まやかしに過ぎんのですよ」
私は何も言えなかった。言える筈もなかった。これが忠告というのなら、何を以ての職務なのか。
「勘定は私の方で。松崎検事、後は貴女が答を出すだけですがね。失礼」
そう言いながら膝を伸ばし席を立った。
「貴女はゆっくりしてから出た方がいいでしょう」
ポツリ―― とひとり残されたような私に、さざ波が押し寄せているようにさえ感じた。
平野刑事が席を立ってから10分程だろうか…、さざ波が静かに押し寄せるように、忘れていたモノが私を覆い被る。それは言うまでもない、もう1人の私までがそうのだ。
席を立ち私は化粧室に赴き、用足しの便座に座った。スカートの裾から手を這わしショーツの中の茂みを掻き分けた。
「ああう…」
待ち侘びていたように蜜壺が潤う。粘りつく指先を少し動かすだけで腰を突きだそうとする。
「うふん…ああ…」
押し殺すような吐息に混ざる甘味な感情。ダメよ。そう、夜にしましょう。退屈させないから。
唇を軽く開け、愛液に濡れた指を口に運び、まるで男性器を頬張るように、そっと含んだ。これが貴方なら…、舌を絡め唇をすぼめ指を唇から離した。
はしたない女。今思い出しても身体の芯が熱くなる。やっぱり女なのよ。しかし気になるのは……。苛立ちを漸く抑え、化粧を整え歩を進めた時、何気なく頭をもたげた時に目に映り込んだその姿に心臓がドクッ!と高鳴った。
「えっ…主任検事…」
偶然?何故かしら主任検事(検事室長)が居るではないか。私に気づいていないのだろうか…、胸の高鳴りが何かを感じ取っているのかもしれない。
私は目を逸らすように足早に『田庵』を後にしたのである。
片瀬が電話番号を調べてくれている間、私は回想に耽っていた。そう、私の不安を悟られないように。
「大したことではないのよ。以前お世話になった刑事が其処に赴任しているから、少し尋ねたいことがあったの」
片瀬の質問に答えた私であるが、実際私は何を気に止めているのだろうか…。不安に煽られているということは、きっとこういうことを言うのかもしれない。そして私はその為に何をしようとしているのだろうか、今一つハッキリした答が出てこない。ああ、判らない…。しかし、その不安を取り除くことができるキーワードが何処かにある筈だ。何だろうか?再び目蓋を閉じた。
何かが浮かぶように念じる。その中で浮かんだ『松山』という二文字に、まさか…?と思いながらも、その時に謂れのない程の戸惑いが私の胸奥に駆け巡る。そのくせに私の脳に流れるエナドリンが一気に放出されたかのように、内なる私に媚薬効果をもたらす。
全身に貫く神秘なる快楽に私は、内なる私に険悪感を抱いていた。
自分の思考に逆らうかのようにオルガズムを求める蜜壺。怖い…。自分でありながら実のところ、自分でないそんな現状の坩堝に恐ろしさを感じてならない。
「松崎検事、これ置いときますよ」
事務官の片瀬の言葉に私は自分を取り戻した。卓上に置かれたメモ用紙に控えられた電話番号を見やり、私が何を気にしているのかを思い出した。
「大丈夫ですか?何だか顔色が優れないようですが…」
「ええ大丈夫よ。本当に何もないから。ありがとう」
と片瀬の言葉に応えたものの、やはり何やらの不安を掻き消すことができなかった。
この感情が単なる思い過ごしであることを願うように私は受話器に手を伸ばした。
「はい佐渡西警察署(新潟県警察)ですが」
受話器向こうから方言訛りな女性が対応した。
「私、N県地検副検事の松崎と申しますが」
「おんやまぁ、随分遠くからで。何たら事件でしょうか」
「いいえ。実はそちらにN県警から転属された平野さんが配属されていると思うのですが」
「平野ですか…」
そう言うや、声主が受話器から遠退く。胸の内に靄がかかるような思いに包まれる。その靄なる訳が何であるのか、私の耳に飛び込んだ言葉に裏付けられた。
「検事さん、待たせちまって申し訳ないですが、そんたら人は転属されていねえとのことですが」
「えっ!?間違いありませんか」
「一応、北立島駐在所、北狄駐在所、橘駐在所、千種駐在所、吉井駐在所、畑野駐在所、松ケ崎駐在所
、小木駐在所、羽茂駐在所、赤泊駐在所に問合せをしますが、何せ小さな警察署であるもんで。仔細が判れば連絡しますが、え~と」
「N県地方検察庁の松崎です」
どういうことなの…、私の名前をメモしているを感じとりながら、靄が深まるように胸騒ぎがした。力なく世辞を述べ受話器をフックに戻した。何がどのようになっているのか判らない。目頭を押さえながら、今1度私自身の記憶を整理しはじめる。
初夏の陽射しが眩しく感じた………。

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