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第15話

逮捕2
ワシは有頂天になっていたんや。擬装結婚は巧くいくわ、守田からもカネは回収出来たんのやから。只、守田は可なり本気になっていたんや。しかしやカネを払ってまで日本に来たがるような女やで。ま、日本にも居てますわな。けど考えてみたら世の中全てがカネで動いている訳ですわ。それにしても国際結婚の手続きを踏むのにパト(パトロールカー)で送り迎えや。すっかりワシはVIP気分になってしもたわ。ま、国の事情が事情だけに反日関係の縺れから、日本での犯罪は大目なんやろな。 
王梅雨でっか?既に東京で稼いでおりますわ。月に1回は顔を見せに来よりますわ。一応夫婦ですやろ、既成事実を作らんとあきませんねん。
けどワシは何の為の右翼なんやろか…
「ククク右翼か。河村、何の為に右翼をしているんだ」

右翼団体(うよくだんたい)は、右翼思想を掲げる政治団体または政治的勢力である。

右翼的または保守的な思想や団体は、古来よりあらゆる時代・地域に存在している。17世紀以降の啓蒙思想や、18世紀以降の産業革命による近代化により、進歩主義や自由主義や個人主義などの思想と、政治的・経済的には資本主義や社会主義などが進展すると、それらに疑問を持ち反対する対抗勢力として右翼思想や保守主義を掲げる団体も明確化していった。

右翼団体の多くは、その国や地域の文化的・歴史的・伝統的な価値観や、それらに基づく社会秩序や社会体制を支持しており、ナショナリズムや民族主義や国家主義あるいは地域的な共同体を重視した多数の思想や運動が存在している。

しかし「右翼団体」の公式な定義や範囲は存在しておらず、自称する団体、自称しないがそう他称される場合が多い団体、あるいは政治団体としての実態を伴わないが暴力団などが摘発回避のため偽装している団体、更には革新派や左翼団体からレッテル張りされた団体も少なくなく様々である。政治的スペクトル上の位置づけでは、通常は保守主義、権威主義、全体主義、君主主義、集団主義、あるいは反共主義などの指向を持つ場合が多い。
日本の右翼団体は、通常は観念右翼、正統右翼、仁侠右翼、革新右翼(国家社会主義)、街宣右翼、宗教右翼、新右翼(民族派)、行動する保守などに分類される。また「右翼団体」の呼称はあくまで左翼との比較における名称であるため、自ら右翼団体と標榜することはなく一般には「愛国者団体」という表現をする(連絡機関の団体名にも「愛国」の文字が見られる)。

伝統的な意味の右翼思想は、伝統や文化の価値を重視する保守主義であり、日本の右翼が思想的な源流を主張するのは近世の国学や、明治維新の三傑と目されながらも士族の反乱である西南戦争を起こした西郷隆盛などである。これらは、西洋化につながる近代化や、それを推進する中央政府を警戒し、地域の宗教や歴史や習俗の独立性や継続性を重視する、保守的・伝統的・地方主義的な右翼潮流として、以後の政府や資本家の用心棒的な「観念右翼」や、社会主義に対抗し、国内の腐敗を除去する「革新」を打ち出す「革新右翼」とは別に存在していくことになる。

日本では、車両を用いて駅前や街頭、官公庁近辺や攻撃対象となる企業や集会場の周辺等で大音量による抗議、宣伝活動や公道を大音量の音楽を流して走行する「街宣右翼」が広く知られ「典型的な右翼」と見られがちであるが、この活動方法は1970年(昭和45年)内外にあらわれたものであり、多くは暴力団と表裏一体の右翼団体(仁侠右翼、右翼標榜団体)であり、多くは思想面での政治運動には積極的ではなく、企業恐喝や政治家有名人恐喝などを目的としたいわゆる偽装右翼団体、『似非右翼』である場合が多い。
日本の右翼思想が確立するのは明治時代であるが、その源流は、江戸時代後期の国学者の一部が標榜した国粋主義や皇国史観などが挙げられる。また日本の右翼団体の起源は、1868年(明治元年)1月3日の明治維新(王政復古の大号令)だと目される。これを14年遡った1854年(安政元年)3月31日に、江戸幕府14代将軍徳川家定が鎖国を撤廃した時、勤王反幕の政治家が勢力を増した。幕末に生み出された大量の尊王派の志士の組織活動は、維新の成功によりいったんは政権に組み込まれ消失する。

画期となるのは征韓論事件を境とした九州・山口でおこった一連の士族反乱である。西郷を敬愛し国学・朱子陽明学の実践を願いながらも死にそびれ、あるいは取り残された者たちの在野集団が1881年(明治14年)に頭山満らが結成した玄洋社であり、これが日本の観念右翼のはじまりとされている。

1880年代に自由民権運動が発生し、激しい反政府運動が盛り上がった。明治政府は自由民権運動を公権力で取り締まるとともに、しばしば任侠集団に政治団体を結成させ、民権運動家の活動を妨害・弾圧する手段とした。
その後、社会主義運動の高まりと共に労働争議、小作争議が各地に広まると、政界、財界からの要望により、任侠系の政治団体がそれらの運動妨害、弾圧運動に大きな役割を果たした。この系統を引く団体は、「任侠右翼」(暴力団系右翼)などと呼ばれる。

1910年代になると社会主義思想が日本にも波及してきた。政府はこれに自由民権運動以上の拒否反応を示し、公権力と任侠集団で取り締まりや妨害を行った。これらの任侠集団は明治元勲たちとも結びつきが強く、自由主義や社会主義に対抗して、国家を擁護する右翼団体を結成した。

また、近代化の過程で生じた諸矛盾を解決を目指す政治団体として、平等を目指す2つの流れが生じた。一つは社会主義革命により平等を目指そうとする流れ。もう一つは天皇の下に万民は平等であるとする流れである。これは、日清戦争や日露戦争を背景に、中華民国の成立や李氏朝鮮の近代化に関与した大アジア主義の潮流に乗る。また、社会主義の影響もとで国家主義によるアジアの近代化の実現を目指したために社会主義との接近をも起こし、その思想潮流はいわゆる国家社会主義や社会主義との複雑な影響の元にあった。思想的傾向は、必ずしも反共主義ではなく、反欧米色が強かった。この系統を引く団体は、「正統右翼」などと称される。

財界の要望に立ち労働運動を弾圧する「任侠右翼」(暴力団系右翼)と、理想を掲げて凡アジア的活動を行う「正統右翼」は、戦前の右翼団体の2つの大きな系統であった。これらは利害が一致する財界、軍部から資金援助を受けて活動をしていたと田中隆吉は述べている。

世界恐慌時代には、右翼も社会主義から強い影響を受け、一部の国学の系統を引く日本の保守思想家や左翼からの転向組の中から国家社会主義思想を持つグループが現れた。この系統は革新右翼と言い、陸軍の皇道派に近い民族主義的な観念右翼と、陸軍の統制派に近い革新右翼が対立を起こすようになる。これらは日独伊三国軍事同盟締結時の陸海軍の対立や、五・一五事件、二・二六事件などにも影響を与えた。
[編集] 第二次世界大戦終結後

1945年(昭和20年)に日本政府は降伏文書に調印した(第二次世界大戦での日本の降伏)。GHQにより多くの右翼団体は軍国主義の温床と見なされ、弾圧を受けた。また、右翼団体のパトロンであった軍部の消滅、財閥の解体、農地改革による地主層の没落により、資金面でも厳しい局面に追い込まれた。これにより革新右翼の流れを汲む民族派右翼(陸軍系)は衰退し、親米右翼の流れが増えていった。

[編集] 冷戦時代

アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下に置かれた戦後混乱期には、GHQ主導で上からの民主化が進められたものの、東京裁判が終わると今度は冷戦が始まり反共主義による「逆コース」が進み、公職追放を受けた者が続々と政界に復帰した。すると、日本の再軍備化が検討されるようになり、公職追放解除や朝鮮戦争への日本の協力として旧軍人への法務府特別審査局の聞き取りなどがおこなわれ、それまで沈黙を保っていた旧軍人や右翼活動家も発言をおこなうようになった。再軍備にむけた旧軍人の組織的な活動は1951年(昭和26年)8月の大量の追放解除以降に活発化し、おおむね以下の5派が展開された。

皇軍復活を主張した真崎甚三郎らの「皇道派」

具体的再軍備案を提示のうえ連合国側に協力を提示した下村定元らの「正義派」

連合国との協力を変節者と見なしこれに対抗した岩畔豪雄らの「統制派」

反共援蒋のために台湾派兵を計画した岡村寧次の「募兵派」

制海・制空権を重視した再軍備計画を提案した野村吉三郎元海軍大将を中心とした「海軍派」

最初の組織化は1951年(昭和26年)10月に赤尾敏を中心とした大日本愛国党であるが、すでにその半年前の2月には第一回愛国者団体懇親会などができあがっており、また1952年(昭和27年)からは右翼団体が続々と設立された。

これらは冷戦にともなう「防共の砦」としての日本の防衛に危機感を持ったGHQの意向に適うものであり、左翼思想を統制する「逆コース」とも呼ばれた。1951年(昭和26年)には、木村篤太郎法務総裁(後に法務大臣)が当時の金額で3億数千万の予算をつけ、テキ屋、暴力団、右翼をまとめた私兵「反共抜刀隊」を政策として立案したが、吉田茂首相に相手にされずに頓挫した。
占領期が終わると各右翼は天皇中心主義・反共主義・反社会主義・再軍備促進・憲法改正などのそれぞれの主張を標榜し、活動を再開した。これら戦後の右翼団体の大きな特徴としては「反共親米」路線を挙げることができる。

1960年(昭和35年)にはドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領来日を歓迎・支援するために、自民党安保委員会が、全国のテキ屋、暴力団、右翼を組織して「アイク歓迎実行委員会」を立ち上げ、左翼の集会に殴り込みをかけさせた。これらの動きに伴い、黒塗りの街宣車で大音量の軍歌を流す、典型的な「街宣右翼」が登場した。1992年(平成3年)の暴力団対策法施行以降は、暴力団組織が右翼団体に資金を提供、もしくは政治団体に衣替えする事例が続発し、右翼が国家に対抗し反権力を主張する状態になっている。街宣右翼は、相手を“反日”と断じたならば街宣をかけるというその性質から、様々な批評がされている。

任侠右翼の系譜としては、戦後しばらくして海軍と三菱財閥の流れを汲む利権に結びついた山口組系右翼の活動が目立った。彼らは海軍・三菱と共に長崎から船に乗って広島、神戸、横浜など造船所・港町を伝って全国へ広がった。天皇を立てた主張が近いため両者の識別は難しいが思想・活動目的、資金源は全く異なる。概ね親米か反米かで区別できる。戦後から昭和期にかけては児玉誉士夫のように政財界の黒幕として利権政治や談合に関与し、あるいは総会屋や仕手筋などとして暗躍するものもいたが次第に退潮した。正業を持たず資産家の資産を守る用心棒まがいのことをしたり、食客まがいの者もある。

他方では、1960年代後期から、「新右翼」や「民族派」と呼ばれる、街宣車を用いないか一般車のような外見の街宣車で演説をする活動に切り替える右翼活動家が現れ始めた。彼らは「反共」一辺倒の思想や暴力行為や大音量による宣伝活動に従来の観念右翼や街宣右翼に反発し、トークセッションに出演したり論壇誌に数ページの連載を持ったりする論理的な言論活動で日本や民族を訴える活動をしている。この背景には、従来型の右翼の黒幕である児玉誉士夫のロッキード事件での多額の蓄財の発覚や、三島事件、経団連襲撃事件などを契機とした、体制寄りの腐敗した「既成右翼」への反発がある。
彼らは「反共反米反体制」や、場合によっては「民主主義、市民主義」を主張し、思想的には戦前の「正統右翼」との共通点も大きい。
世界恐慌時代には、右翼も社会主義から強い影響を受け、一部の国学の系統を引く日本の保守思想家や左翼からの転向組の中から国家社会主義思想を持つグループが現れた。この系統は革新右翼と言い、陸軍の皇道派に近い民族主義的な観念右翼と、陸軍の統制派に近い革新右翼が対立を起こすようになる。これらは日独伊三国軍事同盟締結時の陸海軍の対立や、五・一五事件、二・二六事件などにも影響を与えた。

1945年(昭和20年)に日本政府は降伏文書に調印した(第二次世界大戦での日本の降伏)。GHQにより多くの右翼団体は軍国主義の温床と見なされ、弾圧を受けた。また、右翼団体のパトロンであった軍部の消滅、財閥の解体、農地改革による地主層の没落により、資金面でも厳しい局面に追い込まれた。これにより革新右翼の流れを汲む民族派右翼(陸軍系)は衰退し、親米右翼の流れが増えていった。

アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下に置かれた戦後混乱期には、GHQ主導で上からの民主化が進められたものの、東京裁判が終わると今度は冷戦が始まり反共主義による「逆コース」が進み、公職追放を受けた者が続々と政界に復帰した。すると、日本の再軍備化が検討されるようになり、公職追放解除や朝鮮戦争への日本の協力として旧軍人への法務府特別審査局の聞き取りなどがおこなわれ、それまで沈黙を保っていた旧軍人や右翼活動家も発言をおこなうようになった。再軍備にむけた旧軍人の組織的な活動は1951年(昭和26年)8月の大量の追放解除以降に活発化し、おおむね以下の5派が展開された。

皇軍復活を主張した真崎甚三郎らの「皇道派」

具体的再軍備案を提示のうえ連合国側に協力を提示した下村定元らの「正義派」

連合国との協力を変節者と見なしこれに対抗した岩畔豪雄らの「統制派」

反共援蒋のために台湾派兵を計画した岡村寧次の「募兵派」

制海・制空権を重視した再軍備計画を提案した野村吉三郎元海軍大将を中心とした「海軍派」
最初の組織化は1951年(昭和26年)10月に赤尾敏を中心とした大日本愛国党であるが、すでにその半年前の2月には第一回愛国者団体懇親会などができあがっており、また1952年(昭和27年)からは右翼団体が続々と設立された。
これらは冷戦にともなう「防共の砦」としての日本の防衛に危機感を持ったGHQの意向に適うものであり、左翼思想を統制する「逆コース」とも呼ばれた。1951年(昭和26年)には、木村篤太郎法務総裁(後に法務大臣)が当時の金額で3億数千万の予算をつけ、テキ屋、暴力団、右翼をまとめた私兵「反共抜刀隊」を政策として立案したが、吉田茂首相に相手にされずに頓挫した。

占領期が終わると各右翼は天皇中心主義・反共主義・反社会主義・再軍備促進・憲法改正などのそれぞれの主張を標榜し、活動を再開した。これら戦後の右翼団体の大きな特徴としては「反共親米」路線を挙げることができる。――― 以下省略(右翼団体より転載)