第104話

Vol.12
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2019/12/06 12:44
モルガンを襲った敵[編集]
モルガンは、三度、「銀行の敵」に襲われた。一度目はモルガンが金の買い付けで連邦財務省を援助している間、二度目は1907年恐慌の後、三度目はニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道(NH)の財政悪化時である。 財務省を援助している間というのは、モルガンが金を買い戻し、アメリカの信用を回復したときである。1893年恐慌が長引く農村地帯では、金銀複本位制を歓迎していた。金本位制であれば、通貨の供給量には限度があるために不況は長引き、農民は苦しむことになるが、金銀複本位制であれば通貨の供給量を増大させることができ、インフレーションが起こり、農産物価格も上昇する。ところが、モルガンをはじめとしたシンジケートが金本位制を定着させたとして、モルガンらは憎まれ役となってしまった。 1907年恐慌の後というのは、恐慌のたびに銀行に経済を救ってもらっていた合衆国政府は中央銀行の必要性を強く意識した。連邦準備制度を創設し、モルガンら銀行の勢力を削ぐことに力を注いだのである。これをもって、銀行と政府との関係も大きく変化していくことになる。 NHの問題というのは、ニュー
イングランド南部の交通網にモルガニゼーションを実施したために起こった問題である。問題はさらにふたつあり、ひとつはNHがその後、多くの事故を起こしたこと、もうひとつは、トラストを目の敵とするルイス・ブランダイスの関心を引き、モルガンの死期を速めたとも言われるプジョー委員会(Pujo Committee、金融・通貨委員会内の小委員会)の介入を招いたことである(後節参照)。 NHは、設立時にモルガンの祖父が出資をしていたという経緯があり、モルガンが経営を握っていた。1903年には社長にチャールズ・サンガー・メレンを指名し、ニューイングランド州におけるモルガニゼーションに着手。鉄道、汽船、路面電車などの交通機関に敷衍し、ニューイングランドの交通機関の独占を図った。 その手法は、利益のまったく出ていない競合他社までをも巨額で買収するもので、その費用がかさみ、従業員は必要以上に増加した。さらに一部には近代化を施す費用もかかった。モルガン自身はその費用を調達するための社債等の発行手数料を100万ドルも得ていたほか、株主への配当は高配当であった。
モルガンの後ろ盾があるため、超優良株でもあった。 しかし、経営状態は惨憺たる状態であった。前述の費用を賄うために、従業員の解雇や賃下げ、保線の間引きなどが行われた。そのために鉄道事故が立て続けに起こってしまった。メレンが社長を去り、モルガンが逝去した後までも、多数の死亡者が出る事故が続いた。 こうした状況を見たブランダイスは、企業と銀行の関係を公共の利益に反するものとして、目ざとく追求していくこととなった。
プジョー委員会による聴聞[編集]
1912年12月、モルガンはプジョー委員会で証言した。委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。ファースト・ナショナル銀行とナショナル・シティ銀行の取締役として、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに合衆国最高裁判所の裁判官となったルイス・ブランダイスはこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした[9]。
イギリスとアメリカのモルガン系企業の系譜[編集]

ロンドン[編集]

1838年- ピーボディ・アンド・カンパニー

1843年- ジョージ・ピーボディ

1851年-ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニー

1864年-ジュニーアス・モルガンがピーボディのパートナーとなる

1864年-J・S・モルガン・アンド・カンパニー

1910年-モルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー

1934年-J・P・モルガン・アンド・カンパニー保有の株式が3分の1となる。のち1981年から翌年にかけてすべて売却

1989年-ドイツ銀行がモルガン・グレンフェルを買収

ニューヨーク[編集]

1861年-J・P・モルガン・アンド・カンパニー

1864年-ダブニー・モルガン・アンド・カンパニー

1871年-ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニー

1895年- J・P・モルガン・アンド・カンパニー

1935年-グラス・スティーガル法を受け、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは商業銀行になる。投資信託業務はモルガン・スタンレー・アンド・カンパニーに分離(後述)
1935年-グラス・スティーガル法を受け、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは商業銀行になる。投資信託業務はモルガン・スタンレー・アンド・カンパニーに分離(後述)

1940年- J・P・モルガン・アンド・カンパニーが会社組織となる

1959年- ギャランティ・トラストと合併、モルガン・ギャランティ・トラストとなる

1969年- 持株会社制に移行。グラス・スティーガル法により分離されていた業務に再度進出

私生活[編集]

家族[編集]
モルガンは終生米国聖公会のメンバーであった。1890年までは指導的立場でもあった。 1861年にアメリア・スタージス(Amelia Sturges。愛称ミミ。1835年-1862年)と結婚。結婚前から肺病を患っており、結婚の翌年、ミミは逝去。1865年5月31日、フランセス・ルイーザ・トレーシー(Frances Louisa Tracy、愛称ファニー、1842年-1924年)と再婚し、4人の子供を儲けた。ファニーとの結婚生活は早くに破綻し、モルガンは老齢となってなお数々の浮き名を流し続けた。 4人の子供は以下の通りである。
ジャック・モルガン(英語版)(1867年-1943年)

ルイーザ・ピアポント・モルガン(1866年-1946年) - ハーバート・リビングストン・サタリーと結婚

ジュリエット・モルガン(1870年-1952年)

アン・モルガン(1873年-1952年)

モルガンの叔父にあたるジェームズ・ピアポント(James Pierpont (musician))は有名な作曲家で、ジングルベルの作曲者としても知られる。
容姿[編集]
モルガンの容姿は人々に強い印象を残している。ある者は「モルガンが訪ねてくると同時に強風が吹いたようだった」と語っている[10]。モルガンの両肩は量感があり、体は大きく、目は見開かれ、酒さによって鼻は紫色であった。この鼻は、モルガンにとって、生涯、非常に気にするところであった[11]。場合によってはその鼻を侮蔑されることもあったが、侮辱した人間はモルガンによって報いを受けた。そのため、モルガンは写真に撮られることを極度に嫌った。肖像写真では、鼻を修正したものしか使用を認めなかった。 以下省略。

「あのカードって、そんなに凄いんですか」
アユの言葉に松山さんは言った。
「君の夢は何を望んでいるかだ。この国は、いや世界全てがゲームで成り立っている」
「ゲーム?」
「例えばだ」

日本人を始めとした有色人種は、劣った人種であり核戦争で絶滅すべきである」と強硬に主張するキリスト教原理主義教会がある。
この教会の信者が、アメリカ人の50%を超えているんだが、核戦争後、キリスト教徒だけが神によって救われると狂信するこの宗教は、キリストを十字架にかけたユダヤ人を凄まじく憎悪してきたんだ。
しかしキリスト教原理主義教会の極右派が政治の世界に出、前ブッシュ政権の最大の政治基盤になる際、資金源としてユダヤ人の富豪の資金から支援を得、キリスト教原理主義教会の極右派はユダヤ教徒と協力・妥協関係に入った。
極右派に裏切られ、政治世界から排除された右派は逆上し、激しい反ユダヤ主義の攻撃を開始し、その組織をイルミナティ・ルシフェリアンであると攻撃を開始した。
当然、右派は、極右派=ブッシュ前政権、そして911テロ問題をも激しく糾弾する。
日本における、イルミナティ・ルシフェリアン陰謀論者の資金源は、キリスト教原理主義教会・右派から出ている。
この右派も含め、キリスト教原理主義教会全体の活動資金がロックフェラー・ロスチャイルドから出ているため、日本における、イルミナティ・ルシフェリアン陰謀論者は、ロックフェラー・ロスチャイルドより、ブッシュ一族の方が悪い等々と、デマ宣伝を行っている。
ブッシュ一族の富の源泉が、ロックフェラーの石油運搬専属のユニオン・パシフィック鉄道の経営であった歴史的事実、ロックフェラーの石油開発資金がロスチャイルドから出資されている事に「煙幕を張り」、日本人の眼から「真実を覆い隠し」、
日本人をデマで洗脳し始めている。

「君には難しすぎるか、クク。もうすぐshow timeが始まる。クク、ククク」

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