前の話
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私は水野ナツネ。季節の夏に、音楽の音と書いてナツネ。
この春から高校生で、今日、学校の制服が家に届いた。
だから、お父さんとお母さんもリビングに揃って、今はお披露目の時間。
ナオキ「おお、似合ってるね。可愛いよ。なあ、カオリ」
カオリ「そうよね、ナオ。感動しちゃう」
カオリ「あら、そんなことないわよ。同じ制服でも、昔と今じゃ印象がまるっきり違うわ」
ナオキ「それに、時代も今じゃ令和だからね。お父さんたちとナツネで、感じ方も変わると思う。もちろん、お母さんだって可愛かったんだよ?」
カオリ「あら、うれしい」
カオリ「なっちゃん、学校で彼氏ができたら、いつでも報告しにいらっしゃいね」
ナオキ「そ……そこはできれば報告してほしくないな……」
お父さんとお母さんは、しつこいくらいに仲がいい。
時々うんざりすることもあるけど、私はそんな両親がなんだかんだで好き。
カオリ「高校生の頃、懐かしいわぁ。あの日から、もうそんなに時間が経ったのね」
ナオキ「少し前のことだとばかり、思ってたんだけどねぇ」
あの日というのは、お父さんが高校最後の夏、お母さんへ告白した時のこと。
二人はその日のことを今でも、私に惚気として語ってくる。
正直しつこい。
でもその話で、私はつくづく思うんだ。
声って、心まで動かしちゃう力があるんだなぁ、って。
お父さんとお母さんはその日、地元の野球場にいたんだって。
お父さんの名前、本当はナオキっていうんだけど、お母さんはいつもナオって呼んでる。
今の呼び方は、その時もだったみたい。
その日はお父さんが、初めて野球の試合に出れるかも、って日だったの。
最後の大会で、ようやく補欠メンバーに入れたんだってさ。
そしてその日が、1回戦当日。
お父さん、すごく張り切っていたらしいんだ。
お母さんは怪我をしちゃって、そのまま部活を引退したみたいだから、なおさらだったみたい。
だけど試合は、5回の表が終わって12対2。
裏の攻撃が0点だったら、お父さんたちのチームが負けで終わっちゃう。
その時お父さんは、まだ出場してすらいなかった。
だからバックネット裏、お母さんはずっと、お父さんが出てくるのをひたすら祈ってたみたい。
最後になるかもしれない打席、出てきたのは2年生の桑原さん。
お父さんの苗字は水野だから、全然違う。
幸いにも、桑原さんは出塁してくれたみたい。
すると……
ここでお父さんが出てくるの。
お母さん、その場で立ち上がるくらい嬉しかったんだって。
でもお父さんはその時、すごく緊張していたらしいんだ。
全く気が気じゃなかったって話してた。
お父さんは空振りばかりで、すぐに追い込まれた。
するとお母さん、躍起になっちゃって、周りなんかお構いなしに叫んだらしいの。
そしたらね、そのあとのお父さんがすごいんだ。
次の来た球めがけて、バットを思い切り振ったんだって。
そしたら、カキーン! ってすごい音が鳴って、お父さんの引っ張ったボールが飛んでって飛んでって飛んでって、なんと外野スタンドまで届いちゃったみたいなの!
……まあ、打球は逸れちゃったらしいんだけど。
球場から、どよめきや拍手も起きたんだって。
でも、これからやるぞ、って時にだよ?
1塁ランナーの桑原さんが、牽制でアウト。
結果、ゲームセット。
お父さんの初打席は、結局なしで終わっちゃったんだ。
お母さん、待ち合わせた公園にお父さんが来るまで、ずうっと怒ってたんだって。
でもそんなお母さんを見て、お父さんはわかったらしいの。
ボールが飛んだあの瞬間、支えてくれたのはまぎれもなく、目の前にいるこの子の声なんだ。
でも自分を支えてくれたこの子にも、支える人が必要なんだ、って。
だから、とにかく支えたい一心で……
お母さんをそっと抱きしめたらしいわ。
そして何年もの夏が過ぎたあと、ここにいる私が生まれたってわけ。
お母さんの応援が、お父さんの夏を終わらせなかった。
そしてお父さんの告白で、お母さんの夏が始まった。
……私にも、そんな夏が来るのかな。
ナオキ「ん? ナツネ、どうしたの?」
大丈夫よ。なっちゃんにも、きっといい夏が来るわ。だって、私たちの子どもなんだもの
えっ、ひょっとして私、声に出してた?
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!