夏の匂いを含んだ生ぬるい風が踊るように部屋へ入ってくる。その風は吊るされた風鈴を鳴らし、涼しげな音は夜の闇へ溶けていった。
いつの間にか蚊取り線香は静かに燃え尽き、灰色になったものが残っているだけであった。湯のみに入れられた緑茶は音もなく揺らいでいた。
持ち上げ、また1回飲む。
冷たいお茶が蒸し暑い体に染み渡る。
弟の星那は縁側に寝転び猫と遊んでいる。
母はやかんを手に立ち上がり台所へと向かった。
花火は終わり、私たちの家でみんなで休憩をしていた。団らんと言うやつだ。
この空間がひどく懐かしい。しかし、落ち着く空間であるはずなのに妙に気が散る。
何に・・・?
私は何を忘れている・・・?
私は湯のみから手を離して立ち上がる。
浴衣が畳と擦れる音がする。
廊下を進み、洗面所へ入る。ふと鏡が目に移り立ち止まる。
見慣れた自分の顔。
くるっと向きを変え鏡から離れた時、思わず足を止めた。
一瞬、この目に見えたのは幻か?現か?
ゆっくり鏡を覗き直すと違う私がいた。
髪を高く1つに結び、かき上げていたはずの前髪は眉下で切りそろえられていた。
浴衣は着ておらず、黒い制服のようなものを着ていた。私が普段着るようなものではない。その上からは特徴的な羽織りを羽織っていた。
これ、片方は芭琉さんから貰ったもの・・・
美しく、立派な椿の描かれたやつだ。
再度鏡を真っ直ぐに見た瞬間、
私は全てを思い出した。頭の中を駆け巡る記憶。
私は、
私は・・・
黒雷 あなた
鬼殺隊 鳴柱
鬼に愛する者を殺された女
私はその場に崩れ落ちた。
こちらが幻だったなんて・・・。
会えたと思ったのにっ・・・!
私の今いる所は幻だ。みんなも幻だ。
抱きしめてもらったのも、花火をしたのも、笑ったことも・・・ 全て、全てだ・・・・・・
出来ることならばここに残りたい。
またお別れなんて嫌だ。
でも、だめだ、だめなんだ。戻るんだ、現実へ。
みんなはいない、私は鬼を斬るんだ。
私の座り込んだ床はひんやり冷たかった。
顔を上げると心配する表情の芭琉さん。
しかし、これも・・・。 本当はいない。
わかってる、わかってるけどっっ!
溜まった涙を落とさないよう、
堪えながら私は言った。
一瞬、不思議そうな顔をしたがそう言って優しく、でも強く私を包んだ。
私の幻なんだからさ、そんな事言わないでよ。
言わないで、そんな優しい声で。
なんで、どうして言うの・・・?
芭琉さんの肩に顔を乗せてこの温もりを忘れることのないよう抱きしめる私は、見つからぬように静かに涙を流した。
さようなら、
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!