思えば、幼い頃からよく変な夢を見た。名前もわからない自分になり、消毒液のにおいがする白い部屋で、仕組みが不可解な機械を持ち、一人きりで遊んでいる夢だ。
夢なので詳細は思い出せない。自分の名前ですら曖昧だ。なのに。
『またアンタはゲームばっかりやって──』
瞳の奥で白昼夢がものすごい勢いで再生された。ぐらりと体が傾き、両手と両膝を冷たく固い床につく。
忘れ物のありかを突然、全部思い出したみたいだ。津波のような情報量に襲われて、頭ががんがんする。
やがて焦点があった視界が、大理石の床を映し出した。磨き上げられたそこには、自分の姿が映っている──はず、だ。
だが、黄金をとかしこんだような髪に神秘的なサファイアの瞳をした、この華やかな美人は誰なのだろう。ほっそりとした首筋と卵型の顔の輪郭を、白い指でなでてみる。
まばたくと長い睫毛が上下した。その正面に、誰かが立ちはだかる。
金髪の青年だ。唇を歪めて、膝をついている自分を上から見下ろしている。
か細くなった震え声に、金髪を持つ王子様みたいな青年は皮肉っぽく応じた。
ずきりとした胸の痛みが、現実感を取り戻させる。
そうだ、ここは現実だ。そして、目の前の人物は、エルメイア皇国の皇太子セドリック・ジャンヌ・エルメイア。幼い頃からの知り合いで、自分の婚約者──そして、大好きだったゲームの攻略キャラだ。
自分の記憶にうろたえて、周囲を見渡す。だが冷たい視線が突き刺さるだけだった。
今夜は、自分が通う学園の冬学期修了を祝う自由参加の夜会だ。既に教師達は出払っており、いるのは学友達ばかり。なのに誰も彼もが冷たく自分を遠巻きに見ていた。
唯一、労るような目を向けているのは、セドリックにそっと寄り添う女性──名前はリリア・レインワーズという。庶民から男爵令嬢へと転身した学園の人気者だ。
柔らかそうなキャラメル色の髪、ふっくらとした頰に甘そうな唇。大きな瞳は今、自分を案じている。
さすがヒロインだと見上げる格好で観察して、はたと気づいた。
なら、自分は。
自分の名前だ。そして、ゲームでの悪役令嬢の名前だ。
どこか他人事のように見えていた今の状況に対して一気に思考が巡り出す。焦るアイリーンを、セドリックは嘲笑った。
ごめんなさいってなんだ。
その喉の奥からせり上がった激情は、正しくアイリーンのものだった。
再度視界が霞んだが、唇を嚙んで気を確かにもとうとした。もう一度、自分の姿を見てみる。
幾重にもレースを重ねた豪奢なドレス姿で、へたりこんでいる。公爵令嬢にあるまじき、はしたない格好だ。だが、誰も手を差し伸べてくれはしない。
だってこれは、悪役令嬢の婚約破棄イベントだから。
ならどうして、そんな君が好きだよなんて微笑んだの。
そのみじめな言葉は飲みこむ。それは鉛を飲むような重さだったが、飲みこむと不思議と心が穏やかになった。
──要はいいように使われたのだ自分は、と判断できるくらいには。
もしこれが何も知らないまま起こった出来事であったなら、徹底的に闘っただろう。闘う相手を間違えたまま。
そう考えると、余裕が出てきた。薄く微笑み、顔を上げる。
冷めた目で周囲を見渡すと、意味がわかったのかさっと目をそらす者がいた。だがセドリックは鼻で笑い返す。
ぐいと突然横から腕を引っ張るようにして体を持ち上げられた。首をめぐらせ、アイリーンは相手を見据える。
そう言って目の前に書類の束を突き出したのは、幼馴染みのマークス・カウエルだった。未来の騎士団長と目される彼はすらりとした体軀を持つ、寡黙な人だ。正義感が強く、不正を許さない。その威圧感のある眼差しが、アイリーンを罪人のように睥睨する。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。