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ああ、きったねぇ。
どいつもこいつもこんな奴ばかりだ。
アイツは金のこと、コイツは女のこと、あっちのヤツは才能のこと。
全く煩悩の塊だ。人間なんだから仕方ないのかもしれないが、俺は生まれてこの方顔の見える人間に出会ったことがない。
そう、俺は人間の抱える煩悩が目に見えるのだ。その人の煩悩が深いほど、色濃く煩悩の霧がその人の周りに散布している。
異性間での煩悩はピンク色、金銭は黄色、才能や人を妬む気持ちは緑や紫。
大抵の人間は色んな色が混ざり合って真っ黒になっている。
その黒い霧が人の周りにうようよいるせいで、俺は人の顔をまともに見たことがない。
それは高校に入ってもそうだった。むしろ、さらに色濃くなったように感じる。
今、この高校三年生の現時点でもそうなのだ。
このクラス、煩悩にまみれきっている。もう慣れたものだが、随分とひどい。
だが。一人。清宮鏡花だけは違った。
艶やかな黒髪を背中の中程までのばし、切長でいて大きい瞳、白雪のように透き通った肌、ソプラノの通る声_______。
善心を忘れず、誰にでも懸命に耳を傾けるその姿はまさに聖女そのもの。
明鏡止水、花鳥風月、尽善尽美、そういう美しい四字熟語の似合う人間だ。
その様は“清宮”の姓に相応しい。
彼女だけは、はっきりと顔を見ることができた。
簡潔に伝えるとするなら、彼女に“煩悩”と呼ばれるものは存在しなかった。
本物の聖女であったのだ。
俺が求めていたのはこんな人間なんだよ!もしもこの清宮鏡花が見るに耐えない容姿であったとしても、俺は心の煩悩の無さに感化し、同じように考え、捉えたに違いない。
「…….どうしたの、田沢君?」
清宮鏡花は突然声をかけてきた。俺は彼女の隣の席なんだった。
「あ、いや、なんでもない……」
思わず顔を背けた。色使いでもなんでもない、優しさの一言。好き?なんだか違うような気もする。もちろん、俺は彼女のことが、端的に言えば好きだ。だがそれ以上の感覚_____尊敬や崇拝のような______。
この美しく汚れなき純の心を、俺の手で汚してはならない、という、そんな気持ちが……。
彼女は美人で頭も良かった。故に周りには有象無象の人型の煩悩で溢れていた。
しかし彼女は煩悩を否定することも肯定することもなく、雑多な煩悩たちの相談に付き合っている。
俺はそんな奴らが大嫌いだった。あの黒い霧で、彼女の心が汚れてしまうんじゃないかと考えるだけでどうにかなりそうだった。
だが幸いそんなことはなかった。俺は不安と輝きの二面性の生活を繰り返していた。
そんな中で、俺と清宮鏡花はじわじわと距離を詰めた。隣の席だからしょっちゅう話すし、帰りも毎日一緒だった。
もはやそれが他愛無い日常と化したその頃だった。
「ねえ、田沢君。明日、私の家に来ない?田沢君料理が得意なんでしょ?うちのお母さん料理があんまり得意じゃなくって。お母さんにも田沢君が料理上手な事を話したら、ぜひ呼んで教えて欲しいって言われちゃったの。大丈夫?」
一緒に帰る、一緒に話す。そういうことは幾度としたが、一緒に出かける、家に行く、なんてことはなぜか一度もしなかった。
こちらから「行ってもいいか」と聞くのは俺の良心が許さなかったし、あちらから「行きたい」と言われることもなかった。
いきなりどうしたことだ、と思いもしたが、ここで断るのは無粋だ。彼女の心を傷つけることにもなるかもしれない。
「本当?嬉しいな。じゃあ明日お邪魔させてもらうよ。料理、頑張るね」
俺はいつも通り汎用的な答えを返した。野蛮な反応をして、彼女の心に何かあったら取り返しがつかない。汚くなった部屋や食器は掃除してやれば綺麗になるが、心は汚くなったら元どうりにはならない。
その日は心臓がうるさくて眠れやしなかった。頭の先まで真っ赤になって、大声で叫びたい衝動に駆られる。
朝もまともに起きれなかった。
寝癖のついた頭を直した気になり、通学路に飛び降りた。
頭の中は、ともすれば新しく宇宙でも生まれるんじゃないかというくらいにカオスを極めていた。
遅くも素早い一日だった。
二人並ぶ帰路。
緊張よりも、自分はこんな事をして良い身分だろうかという罪悪感が身を包んでいた。
彼女の家を初めて見た。
清潔感を覚える白の外見はまさに清らかの象徴だと感じる。
立派な一軒家だった。
「ほら、田沢君、遠慮せずにあがって」
「お、お邪魔します……!」
爽やかで甘いような匂いが鼻を過ぎる。
俺はなんというか、その空間に陶酔していた。
「あれ、お母さんは……?」
ハッと目が覚めて、俺はたった今気がついた事を質問した。
「お買い物かしら……。もうちょっとで帰ってくると思うから、そこの洗面台使って手を洗ってね」
彼女は清々しく答えて流れるように洗面台へ俺を導いた。
導かれるとおりに俺は洗面台に進んだ。
進もうとした。
「……?」
俺の視界の端。リビング。何か。
異質なモノが。
「どうしたの?」
はたと我に帰る。
「あ、いや、なんでもないよ。素敵な家だなって」
確かにそれは白かった。布にしては上等な布で、何より白かった。
だがそれが家のリビングにある、ということは、少なくとも俺にとっては異質なことだった。
そして、それがまさしく“異質”であることは、リビングへ入って何より先にわかった。
祭壇?
それは仏壇よりももっと白々しく、しかし確かに存在を認めてほしそうにましましとそこに鎮座している。
するとどうしたことだろうか。
先程まで隣で静かに微笑んでいただけの彼女が突然落ちるようにそこに座った。
その姿は聖女というよりは羊飼いで、いやそれよりはもっと高尚で手の届かないところにいて、やはり聖女に変わらなかった。
ただ。
その姿はあまりに浅ましく、見るに耐えないモノであった。
「えっと……清宮さん、何をしてるの?」
ゆっくりと顔を上げる。時間がスローモーションになったような気がした。
「何って……お祈り。厄を落としてもらってるのよ。煩悩を落としてもらってるの」
俺は惹きつけられるように祭壇を見た。なんということだろう。
“ソイツ”はモノのくせに、その周囲にははっきりと“ソイツ”を視認できないほどの濃霧______煩悩が蔓延っていたのだ!
「えっ__________」
これが、純潔の源______?
それはおかしいだろう、もしそれが本当なら、彼女は煩悩にまみれているはずだ。
だが、真摯的に、そして何よりそのまま天に届くようなまっすぐさを見た時、それも違うと否定が頭を殴った。
彼女がこの“煩悩”を崇拝することに対して、邪念はないのだ。それを正義と信じて疑わない____。故に煩悩など存在しない?
しかしそれ以上に……。
「清宮さん、それ、えっと、どういうことかな……俺、そんな宗教、聞いたことないよ……?」
本能が叫んだ。
対照的に目を見開く彼女。
「宗教?そんなんじゃないわ。このお方は、そんなんじゃないのよ。神様なのよ、教えを説いてくださるのよ」
「それを宗教と言うんじゃないか……!」
思わず感情的に叫ぶ。今度は、喉を突き破って。
清宮鏡花の顔を見て、咄嗟にしまったと思った。
眉を垂れ下げて、理解できない、の意思表示の顔をする。
「どうしてそんなこと言うのよ、田沢君……。宗教なんかじゃないわ。清く正しくあれ、煩悩を持たず聖者の如く……。体を捧げて預ければ、あの方と一体となり、清らかな心を維持出来る……」
彼女の目に光が。ない。
いやそれどころか……俺がこんな事を言ったばかりに、今俺の視界の中の彼女に霞がかかっている!純潔だった聖女が、ヒトの心を持つ羊飼いに……。
そうじゃないんだ、なんだって?
体を捧げて預ければ?
今彼女はそう言ったか?
「ちょっと清宮さん!しっかりしてください、それはどういうことですか、あなたの言う“あの方”に、あなたは何をされたんですか!」
しかしながら彼女はますます泣き出しそうな顔になり、終いには涙をすするような声で
「どういうこと、田沢君……あなたの言ってる事、全くわからないわ……!」
と言い出した。
さっきよりも濃い霞が、彼女の顔を覆う。
疑心暗鬼が、彼女に煩悩を見せているッ……!
放置するわけにはいかない、だがあの純真は……。
なんてこと!
俺はどうすべきなんだ、俺は一体……。
「田沢君は知らないのね、この方のこと……それは良くないわ、少しずつでいいから、知っていきましょう。私が教えてあげるわ」
彼女が俺の手を取る。優しく手のひらを俺の手に乗せる。
それは、逃がさないように、という呪縛のようである。
「やめて、ください、清宮さんッ……!」
俺は手を持てる力で振り払い、顔を真っ青にして恐ろしい家を飛び出した。
訳もわからずがむしゃらに走った。
何も聞こえない、何も見たくない!
後ろ振り返ることだってしたくないッ!
どこを目指せばいい、家に帰らなきゃならない……。
俺は次の日から、学校に行くことができなくなった。行けるはずがなかった。
あれは狂気だ。
一緒にいた今までの時間、自分の中に“アレ”が入ってきてたのかもしれない、と思うだけで、頭が悲鳴を上げる。
彼女は俺の手の届かない場所にいた。あれは触っちゃならないモノだったんだ。
しかしそういう意味で、彼女は聖女そのものだった。
そんなことがあってから初めて外に出た時には、清宮鏡花はどこにもいなかった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!