今朝は正直、いつもみたいに話すなんてできなかった。
だって私は浮気して、クズなことをした立場だから。
いつものようにスーツを着て、ヒールに足を突っ込んで。
いつもなら行きたくない〜なんて駄々こねて南にひっつくけど、それをする気すらも起きなかった。
いつもより少し早い時間帯。玄関の向こう側に踏み出そうとしたその時。
突然呼び止められて固まった私の襟に、南の腕が伸びてきて。
素早くボタンを外したかと思えば、顕になった私の黒歴史の隣に唇で触れた。
それはそれは優しくて、驚くほどにくすぐったい。
でも強く、あまりに力強いものだった。
もう、決めた。
紗夏に何言われても絶対行かないし会話もしない。
なんなら目も合わせないって宣言してやる。
私が好きなのは南だけだし、紗夏は同僚。
その関係は揺るぎないし、これからも変わることはない。
…私は、もう幸せを壊したくない。
"あなた、呼ばれてる"
"隣の湊崎さん。なんか怒ってたけどなんかしたの?"
"あ〜...了解。"
うちの部署の人は、大概の人が私に恋人がいることを知っている。
なぜなら私が散々惚気まくりながら仕事をしていた時期があったから。
ちなみに相手が女性であることも知ってる。なぜなら私が惚気まくっていたから。
そして最近、というかだいぶ前から心配されていた。
恋人という存在がいる私に距離を考えず接してくる紗夏のことを。
困ったらいいなよ、なんて頼もしいことを言ってくれる先輩や、ちょっと羨ましいけどななんて言う同期の男性社員。
私の教育係だった先輩は何かとよくしてくれて、今のように紗夏を撃退(?)してくれるのも今回が初めてではない。
先輩に頭を下げて、嘘をついてもらうように頼んで画面に目を向ける。
液晶の隣に置いてある南の写真を見て、今朝の南の笑顔を思い出して。
自分を律するためと、単純に眺めるための南の写真に励まされながらキーボードを叩く。
“あ、ちょっと…“
ちょうどEnterキーを押したそのタイミングで、後ろから先輩の少し焦ったような声が聞こえた。
直後、私の名を呼ぶ声も。
…頼むから、やめてくれ
結局口を開いてしまった。結局目を合わせてしまった。
決意の甘さが垣間見えた。結局私はどちらを捨てることもできないらしい。
あの場で話してしまえばよかった。でもその勇気はなかった。
あの場で全てを話すということは、私が浮気していた事実を周囲の人間に聞かれる可能性があるということ。
結局世間体を最優先にした結果の、過ち。
そう気付くのは、他に人のいない会議室に連れ込まれてすぐだった。
部屋に連れ込まれて、弱々しく言い返して、挙句の果てにキスまでされて、深くまで翻弄されて。
浮気しないと宣言した翌日に、口を塞がれる情けない人間。
ため息をついても、口を拭ってみても。
あの柔らかい感触は私を紗夏に引き戻すだけで反省すらもさせてくれない。
そのままデスクに戻る気も起きず、でもこの場にいたくもない。
このまま仕事に戻っても、多分仕事にならない。
どうしようもなくなった私は、その場に座り込んで。
ポケットに入れていた携帯で、着信をかけた。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。