過ぎていく景色が、全く目に入ってこない。それはきっと、隣にこの人がいるからだろう。
10分前、電車に優しく揺られていた私の肩を、誰かがトントンと叩いた。顔をあげると、そこには口許に笑みを湛えた折原さんがいた。
何でこんなところに? と聞けば、恥ずかしがる様子もなく あなたちゃんと行きたかったから と答えられ、あまりの素直さに赤面してしまった。
そこまで混んでいなかったため隣に座った折原さんが、口を尖らせて拗ねたようにそう言った。隣に座られ緊張でガチガチだった体が余計に固まり、更に熱くなるのも感じた。
すると、膝にのせていた手が折原さんの両手に包み込まれ、それに驚いて顔をあげたのを逃さないように、逸らせないほど真剣な目で見つめてきた。
そんな目で見つめられて断れるはずもなく、 “センラさん” と呼ぶことになってしまった。
そして、握られたままの手は、目的の駅につくまで放されることはなく、電車を降りたあとに汗ばんだ自分の手を見つめ、ホームで一人静かに赤面した。
私と折原さんを見かけるや否や、ニヤニヤと口をつり上げながら美咲さんがそう言ってきた。
折原さんがそれにノってふざけだすものだから、どんどん顔が熱くなっていった。もういいです! と言って自分の机に行き、早速昨日出来なかった分の仕事に取りかかった。
昼になり、そう声をかけられた。私は弁当を持って美咲さんと一緒に行こうとしたのだが、後ろから 待って という声が聞こえた。
その声は振り返らずともわかった。聞こえた言葉にダラダラと嫌な汗をかきながら、 断ってくれ という目で目の前の美咲さんを見る。しかし、美咲さんはその視線には気付かず──いや、気付いていてわざとなのかもしれないが、いいよ と簡単にOKを出してしまった。
美咲さんは他の人と昼を食べに行ってしまい、残された私は折原さんと食べるしかなかった。本当にすごく嬉しいのだが、あんなことがあった後だ。気まずいし、きっと思い出して赤くなってしまうだろう。しかし折原さんが私にニコリと微笑みかけ、それだけで まぁいいか と思えてしまうのだから単純だ。
───────────おかしい。
折原さんに言われてついていったのだが、食堂に行くのかと思いきやどんどん人気のない場所へ進んでいく。
後ろからそっと声をかけるとゆっくりと振り向き、見たことのない顔で笑っていた。口許には笑みがあり、目尻も下がっている。なのに、いつものような柔らかい雰囲気がない。
その表情に何故か恐怖を覚え、無意識にじりじりと後ずさりをした。
トンッと壁に肩が当たったところで、折原さんの手が顔の横に伸びて壁に当てられた。そして、口角の上がった口をゆっくりと開いた。
目を細めてそう言った折原さんとは対照的に、私は目を見開いて叫んだ。私が何かしただろうか、と記憶を巡らせるが、全く思い当たらない。その様子に気付いたのか、空いている方の人差し指を、私の唇に当てた。
その言葉でハッと思い出す。そういえば朝、名前で呼んでと言われた気がする。顔から一気に血の気が引いていくのを感じた。
すると、クスッと笑ってから人差し指を離し、掌で私の視界を奪った。
折原さん....センラさんはその掌の上からそっとキスを落とした。勿論、私は何をされているのかなど分からなかったのだが。
その後は何もなかったかのように一緒にお昼を食べ、仕事をした。途中、何度か視線を感じたのだが、向かいのセンラさんと目が合うことが多かったので センラさんかな? と思い、気にすることはなかった。
朝、それは突然起こった。
丁度家を出ようとしていたとき、リビングで電話がなった。私は少し開いたドアを一旦閉じ、駆け足でリビングまで行った。
電話口からは何も聞こえず、いたずら電話かな と思い、受話器を置いて玄関に戻った。
玄関には、生ゴミや新聞のゴミなどが無造作にばらまかれていた。ついさっきまでこんな事にはなっていなかった。私は混乱して、その場から動くことが出来なかった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!