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第15話

D坂の殺人事件 (下)推理8
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2021/11/08 09:00
 私は色々想像をめぐらして見たけれど、どうにも彼の考えていることが分り兼ねた。私自身の失敗を恥じることを忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。
明智小五郎
で、僕のかんがえを云いますとね、殺人者は旭屋の主人なのです。彼は罪跡をくらます為にあんな便所を借りた男のことを云ったのですよ。いや、併しそれは何も彼の創案でも何でもない。我々が悪いのです。君にしろ僕にしろ、そういう男がなかったかと、こちらから問を構えて、彼を教唆きょうさした様なものですからね。それに、彼は僕達を刑事かなんかと思違えていたのです。では、彼は何故に殺人罪を犯したか。……僕はこの事件によって、うわべは極めて何気なさ相な、この人世の裏面に、どんなに意外な、陰惨な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられた様な気がします。それは、実に、あの悪夢の世界でしか見出すことの出来ない様な種類のものだったのです。
明智小五郎
 旭屋の主人というのは、サードきょうの流れをくんだ、ひどい惨虐色情者で、何という運命のいたずらでしょう、一軒置いて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本屋の細君は彼に劣らぬ被虐色情者だったのです。そして、彼等は、そういう病者に特有の巧みさを以て、誰にも見つけられずに、姦通していたのです。……君、僕が合意の殺人だといった意味が分るでしょう。……彼等は、最近までは、各々、正当の夫や妻によって、その病的な慾望を、かろうじてみたしていました。古本屋の細君にも、旭屋の細君にも、同じ様な生傷のあったのは其証拠です。併し、彼等がそれに満足しなかったのは云うまでもありません。ですから目と鼻の近所に、お互の探し求めている人間を発見した時、彼等の間に非常に敏速な了解の成立したことは想像に難くないではありませんか。ところがその結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。彼等の、パッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が漸次ぜんじ倍加されて行きました。そして、遂にあの夜、この、彼等とても決して願わなかった事件を惹起ひきおこして了った訳なのです……
 私は、明智のこの異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、何という事件だ!
 そこへ、下の煙草屋のお上さんが、夕刊を持って来た。明智はこれを受取って、社会面を見ていたが、やがて、そっと溜息をついて云った。
明智小五郎
アア、とうとう耐え切れなくなったと見えて、自首しましたよ。妙な偶然ですね。丁度その事を話していた時に、こんな報導に接しるとは
 私は彼の指さす所を見た。そこには、小さい見出しで、十行許り、蕎麦屋の主人の自首した旨がしるされてあった。

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