第14話

D坂の殺人事件 (下)推理7
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2021/11/01 09:00
 読者もすでに気づかれたであろうが、明智はこうして、証人の申立てを否定し、犯人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠立てようとしているが、併しそれは同時に、犯罪そのものを否定することになりはしないか。私は彼が何を考えているのか少しも分らなかった。
で、君は犯人の見当がついているのですか
明智小五郎
ついていますよ
彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。
明智小五郎
僕のやり方は、君とは少し違うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうでもなるものですよ。一番いい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵者自身の能力の問題ですがね。兎も角、僕は今度はそういう方面に重きを置いてやって見ましたよ。
明智小五郎
 最初僕の注意を惹いたのは、古本屋の細君の身体中にある生傷のあったことです。それから間もなく、僕は蕎麦屋の細君の身体にも同じ様な生傷があることを聞込みました。これは君も知っているでしょう。併し、彼女等の夫は、そんな乱暴者でもなさそうです。古本屋にしても蕎麦屋にしても、おとなし相な、物分りのいい男なんですからね。僕は何となく、そこにある秘密が伏在しているのではないかと疑わないではいられなかったのです。で、僕は先ず古本屋の主人を捉えて、彼の口からその秘密を探り出そうとしました。僕が死んだ細君の知合だというので、彼もいくらか気を許していましたから、それは比較的楽に行きました。そして、ある変な事実を聞出すことが出来たのです。ところが、今度は蕎麦屋の主人ですが、彼は、ああ見えても却々しっかりした男ですから、探り出すのに可成かなり骨が折れましたよ。でも、僕はある方法によって、うまく成功したのです。
明智小五郎
 君は、心理学上の聯想診断法が、犯罪捜査の方面にも利用され始めたのを知っているでしょう。沢山の簡単な刺戟語を与えて、それに対する嫌疑者の観念聯合の遅速を計る、あの方法です。併し、あれは必ずしも、心理学者の云う様に、犬だとか家だとか川だとか、簡単な刺戟語には限らないし、そして又、常にクロノスコープの助けを借りる必要もないと、僕は思いますよ。聯想診断のこつを悟ったものにとっては、その様な形式は大した必要ではないのです。それが証拠に、昔の名判官めいはんがんとか名探偵とかいわれる人は心理学が今日の様に発達しない以前から、唯彼等の天稟てんびんによって、知らずらずの間に、この心理的方法を実行していたではありませんか。大岡越前守おおおかえちぜんのかみなども確かにその一人ですよ。小説で云えば、ポオの『ル・モルグ』の始めに、デュパンが友達の身体の動き方一つによって、その心に思っていることを云い当てる所がありますね。ドイルもそれを真似て、『レジデント・ペーシェント』の中で、ホームズに同じ様な推理をやらせますが、これらは皆、ある意味の聯想診断ですからね。心理学者の種々の機械的方法は、唯こうした天稟の洞察力を持たぬ凡人の為に作られたものに過ぎませんよ。
明智小五郎
話が傍路わきみちに入りましたが、僕はそういう意味で、蕎麦屋の主人に対して、一種の聯想診断をやったのです。僕は彼に色々の話をしかけました。それも極くつまらない世間話をね。そして、彼の心理的反応を研究したのです。併し、これは非常にデリケートな心持の問題で、それに可成複雑してますから、詳しいことはいずれゆっくり話すとして、兎も角その結果、僕は一つの確信に到達しました。つまり犯人を見つけたのです。
明智小五郎
 併し物質的の証拠というものは一つもないのです。だから、警察に訴える訳にも行きません。よし訴えても、恐らく取上げて呉れないでしょう。それに、僕が犯人を知りながら、手をつかねて見ているもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかったという点です。変な云い方ですが、この殺人事件は、犯人と被害者と同意の上で行われたのです。いや、ひょっとしたら被害者自身の希望によって行われたのかも知れません

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