初めて歩く銀座の大通りは、雨に濡れて傘の花がいたる所で咲いていた。
バケツをひっくり返したような豪雨も小降りになってきたので、観光客や買い物客も行き交い始めたようだ。しかし、観光案内本でよく見かける和光前の交差点を渡り、一本細い路地に入っていくと、人通りはめっきり少なくなった。
そして、ビルの合間にひっそりと立つ木造のレトロな一軒家の前で、少年は足を止めた。
その家は、ステンドグラスがあしらわれた扉と窓が印象的で、窓辺には花が飾られ、きちんと手入れがされていて、古いながらも清潔感があった。
屋根には黒い一枚板に白い文字で、『多田珈琲店』と書かれた看板がかかっていた。
少年は扉を開けると、カウベルの音と共に「ただいま」と入って行く。
同時に、中から
という元気な少女の声が聞こえてきた。
テレサも続いて入ろうとすると、抱いていた白い猫が腕から飛び降り、「ニャ」と挨拶しながら向かいの細い路地へと歩き出した。
雨も小降りになったので、自分の家へ向かったのだろう。
テレサが「バイバイ」と手を振っていると、「入って」と中から声をかけられた。
傘を畳んだテレサが入口に立つと、店内にいた全員が驚いて注目する。
店の中は、カウンター席が六席、小さなテーブル席が四つという割とこぢんまりしたつくりだ。カウンターの中に、眼鏡をかけた優しい笑顔の六十歳位のエプロン姿の男性と、お揃いのエプロンをつけた、黒髪おかっぱで、くるっとした大きな瞳が愛らしい少女が立っていた。
入口近くのレジ台には、少し太めで毛の色がグレーで足元は白く、緑色の目をした猫が寝転んでいて、窓際には珈琲を飲む老夫婦、カウンターの一番道路側の席に、短髪角刈りで目つきの鋭い男が新聞を広げて座っていた。
黒髪の少女はとびきり目を輝かせていて、テレサの隣に立った少年に、ススス、と近付く。
じっちゃんと呼ばれた眼鏡の男性は、優しく頷いてから
とテレサに微笑みかけた。
と言いかけて、ハッとテレサは口を噤む。
日本では本当の名前は秘密にする約束だった、と思い、コホンと咳払いで仕切り直して、
いつもの笑顔になって、礼儀正しくお辞儀をした。
黒髪の少女は「うわ~、キレイな人~♡」と大きな独り言を呟き、レジ台にいた太めの猫も、同意するように「ニャ」と鳴いた。
じっちゃんと呼ばれた男性だけは、一瞬、怪訝な顔をしたが、テレサはそのことに気付かなかった。
そう勢いよく黒髪の少女に話しかけられたからだ。
少女の年の頃は十二、三歳ぐらいだろうか。こんな可愛い妹がいたらいいだろうな、と漠然と思いながら、テレサは大きく頷いた。
名前を覚えながら繰り返すテレサを、隣から見下ろしていた少年は、「お兄ちゃんさん」という言葉を訂正するように、律儀に自分の名前を告げる。
テレサは迷子の自分を助けてくれた親切な恩人の顔を改めて見つめつつ、名前をしっかり胸に刻んでから、一同に向かってシャキッとお辞儀をした。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!