長い廊下をガラガラと音を響かせながら椅子を押して走った。走った。走った。走った……。
すぐに気づいた。廊下が長い! 長すぎる!
右側はオフィスのドアが並ぶ。左側はクロス張りのそっけない壁。
エレベーターから下りてこの部屋まで、こんなに長くなかった。わたしは椅子を止め、手近なドアを叩いた。
だが誰も出てこない。次のドアも、その次のドアも、誰も出てこないし、ドアノブを掴んでも回りもしなかった。
再び椅子を押して走り出すと目の前にさっきの男が立っていた。その背後にあるのは窓ではなくドア。
どういうこと? 逆の突き当たりは窓だったはず。戻った? そんなバカな!? まっすぐ走っていたはず。
男が言った。白い顔のところどころが火膨れを起こしたように赤くなっている。
もう一度わたしはスプレーを突き出した。遠慮なんかしない、わたしは冬堂さんを守るんだ。
だが、一瞬で男の姿が目の前から消えた。と、思ったら背後にいて、スプレーを持った右手を掴まれる。
男の手がぎりぎりとわたしの手首をしめつけ、その痛みにスプレーを取り落とす。床に落ちたそれを男の足が遠くに蹴飛ばした。
叫んでも声は長い廊下に吸い込まれてゆくだけだ。
タクミ!? こいつの狙いって――タクミなの!?
わたしは必死に体をねじって男の顔を睨みつけた。
この言い方……そしてニンニク入りのスプレーにあれだけダメージを受けていたってことは。
男は――古風な言い回しをする英国紳士風の吸血鬼はわたしの腕を放し、廊下に突き飛ばした。
わたしは身をよじって相手を床から見上げた。吸血鬼は冬堂さんの椅子の背もたれを掴んでいる。
わたしは精一杯怒鳴ったが、相手は冬堂さんのあごを片手で掴み、大事そうに撫でた。
タクミは来ない。仕事を優先した。だが今となってはタクミの判断に感謝する。
吸血鬼は冬堂さんのあごを掴んだまま仰向かせ、首筋に顔を近づけた。
吸血鬼はにやりと白い歯を見せた。タクミもそうだが長い牙などないのだ。噛む必要もない。唇をつけるだけで血液が、正確には血液の中の気が、彼らの中に流れ込む。
わたしは身を起こし、冬堂さんに駆け寄ろうとした。だが、吸血鬼は冬堂さんの椅子をくるりと後ろに回し、わたしの前に立ちふさがる。
吸血鬼の手がわたしの胸元を掴んだ。
わたしは服を掴んでいる男の手を両手で握り、引きはがそうとした。だが、びくともしない。
男はいらだたしげに言ってわたしをひきずりあげた。つま先がぎりぎり床についている。なんて力だろう。
男はわたしにぐっと顔を寄せた。
隠れて生きてきた、とタクミは言った。少しだけ人の記憶にも残ってみたかったんだ、と。それはこういう「掟」などがあるせいだったのか。
男はにやりと口元を歪めた。端正な顔なのに、そうするといきなり獣じみた表情になる。
それがなんだか知らないけど、タクミはそれで追い詰められわたしの血なんかを吸うはめになったのだ。
吸血鬼の顔が近づいてくる。わたしは手をめちゃくちゃに振り回し、足も使って抵抗した。だが、相手はさっきと違って鋼鉄製かと思うくらい、びくともしない。
ああ、わたしはなんて非力なんだ。こいつの手をふりほどくことも、冬堂さんを助けることもできないなんて。
タクミ! タクミ! ごめん、わたしはあんたの輸血パックだっていうのに、こんなやつに吸われるなんて――!
突然、真うしろでタクミの怒号が響いた。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!