───夜。
リビングのソファでテレビを観ている私の隣に、お風呂から上がったお兄ちゃんが座った。
フワッと香るシャンプーの匂いは、同じものを使っているはずなのに、なぜかいつもお兄ちゃんの方がいい香りに感じる。
テーブルの上に乗せていたちゅら玉を手に取り、タオルで濡れた髪を拭いているお兄ちゃんの前に差し出す。
フッと優しく笑ったお兄ちゃんは、ちゅら玉のストラップ部分を人差し指と親指で持って、ゆらゆらと揺らす。
いつも通りを装いながらも、その横顔は隠しきれない嬉差で溢れている。
……ななちゃんとお兄ちゃん。
お似合いだと思うんだけどな。
***
───翌日の放課後。
日直当番の日は、いつも決まって遅くなる。
日誌を開いて、各教科の授業内容を細かく書き込む。自由記述欄は最後の1行まで埋めないといけない気がして、書くことを探して時間が過ぎていく。
時計を見れば、ななちゃんをバイトに送り出してから早20分が経過していた。
窓の外はあいにくの雨。
今日に限って折りたたみ傘も忘れてきちゃったし、このままお兄ちゃんが終わるのを待って、お兄ちゃんの傘に入れてもらおうかな。
お兄ちゃんの事だから、きっと折りたたみ傘持ってるだろうし。
***
日誌を提出して職員室を出れば、生徒玄関の向こうでザーザーと音を立てる雨。
どんより暗い空は見ているだけで気分が落ち込む。
ちらりとこちらに視線を投げて、興味なさげに呟いたあと、再び江本くんの視線は降り続く雨へと向けられた。
いつどんな時もポーカーフェイスな江本くんの瞳が、心配そうに揺れる。
猫さん、この雨の中、どこに行ってしまったんだろう。
***
───中庭
───ザーッ
江本くんと手分けして探すことになったのはいいけれど、まるで降り止むことを知らない雨が、傘をささない私を容赦なく濡らしていく。
だけど、それすら気にならないくらい気づけば私、夢中で猫さんを探していた。
どれくらい探しただろう。
ベンチの裏や花壇、猫さんが入れそうな建物の狭い隙間なんかを覗き込んで、必死に探すけれど……。
どこにもいない。
雨の中、やけにクリアに聞こえる江本くんの声。
それって……
ホロホロと涙が溢れる。
冷たい雨と、温かい涙が入り交じって頬を伝っていく。
見上げた江本くんの表情は、涙で滲んでよく見えないけれど、私が思うことはただひとつ。
泣き笑いって、こういう事を言うんだろうな。
ホッとしたら涙が溢れて、後からジワジワ笑顔が広がっていく。
……猫さんが雨に濡れてなくて良かった。
雨がどんどん体から熱を奪っていく。
冷えきった指先にはもう力が入らない。
こんな状況なのに、ヘラヘラと笑う私に江本くんの眉間のシワが深まって───。
───フワッ
雨から守るみたいにすっぽり頭からかけられた、江本くんのブレザー。
ブレザーごと引き寄せられて、縮まる江本くんとの距離。
まるでスローモーション。
至近距離で目と目が合って、整った江本くんの唇が───。
私の冷たい唇に、熱を分ける。
離れ際、捨て台詞をひとつ。
雨に打たれながら去っていく後ろ姿を、追いつかない思考のまま呆然と見つめる。
……キス、されてしまった。