第13話

大魔王様のお遊びは土砂降りの中
9,532
2020/09/06 04:00
───夜。

リビングのソファでテレビを観ている私の隣に、お風呂から上がったお兄ちゃんが座った。

フワッと香るシャンプーの匂いは、同じものを使っているはずなのに、なぜかいつもお兄ちゃんの方がいい香りに感じる。

木下 伊織
木下 伊織
あれ?あまね、
そんなの付けてたっけ?
木下あまね
木下あまね
あぁ、これ?
ななちゃんにもらったんだ〜
沖縄に行ってきたんだって
木下あまね
木下あまね
それで、こっちはお兄ちゃんにって
テーブルの上に乗せていたちゅら玉を手に取り、タオルで濡れた髪を拭いているお兄ちゃんの前に差し出す。
木下 伊織
木下 伊織
え?俺にって……
アホ澤から?
木下あまね
木下あまね
自分であげた方がいいって言ったら
自分からじゃ受け取ってもらえない
可能性すらあるから……って
木下 伊織
木下 伊織
ふぅん……
木下あまね
木下あまね
お兄ちゃん、
ななちゃんに優しくしてね?
木下 伊織
木下 伊織
……当たり前じゃん。
あまねの友達なんだから
フッと優しく笑ったお兄ちゃんは、ちゅら玉のストラップ部分を人差し指と親指で持って、ゆらゆらと揺らす。

いつも通りを装いながらも、その横顔は隠しきれない嬉差で溢れている。

……ななちゃんとお兄ちゃん。
お似合いだと思うんだけどな。
***

───翌日の放課後。


日直当番の日は、いつも決まって遅くなる。

日誌を開いて、各教科の授業内容を細かく書き込む。自由記述欄は最後の1行まで埋めないといけない気がして、書くことを探して時間が過ぎていく。
木下あまね
木下あまね
終わったぁ
時計を見れば、ななちゃんをバイトに送り出してから早20分が経過していた。

窓の外はあいにくの雨。
今日に限って折りたたみ傘も忘れてきちゃったし、このままお兄ちゃんが終わるのを待って、お兄ちゃんの傘に入れてもらおうかな。

お兄ちゃんの事だから、きっと折りたたみ傘持ってるだろうし。
***
先生
お疲れさん
天気悪いから気をつけて帰れよ
木下あまね
木下あまね
はい
日誌を提出して職員室を出れば、生徒玄関の向こうでザーザーと音を立てる雨。

どんより暗い空は見ているだけで気分が落ち込む。
木下あまね
木下あまね
……あれ?
江本くん?
江本 夏樹
江本 夏樹
……なんだお前、
まだ残ってたのか
ちらりとこちらに視線を投げて、興味なさげに呟いたあと、再び江本くんの視線は降り続く雨へと向けられた。
木下あまね
木下あまね
日誌書いてたら遅くなって……
江本くんは、帰らないの?
江本 夏樹
江本 夏樹
…………
木下あまね
木下あまね
……あ、傘忘れて来たとか
江本 夏樹
江本 夏樹
いなくなった……
木下あまね
木下あまね
え?
江本 夏樹
江本 夏樹
野良猫……
どこ探してもいねぇんだよ
木下あまね
木下あまね
野良猫って……この前、
中庭で遊んでた猫さん?
木下あまね
木下あまね
いなくなったって……この雨に
いつどんな時もポーカーフェイスな江本くんの瞳が、心配そうに揺れる。
江本 夏樹
江本 夏樹
アイツ、まだ子どもだし
こんな雨じゃ寒さにやられて……
木下あまね
木下あまね
探そう!!
江本 夏樹
江本 夏樹
……お前、
木下あまね
木下あまね
大丈夫、きっと遠くには行ってないよ
私も一緒に探すから
そんな不安そうな顔しないで?
猫さん、この雨の中、どこに行ってしまったんだろう。
***

───中庭
木下あまね
木下あまね
おーい、猫さ〜ん?
どこにいるの〜
───ザーッ

江本くんと手分けして探すことになったのはいいけれど、まるで降り止むことを知らない雨が、傘をささない私を容赦なく濡らしていく。

だけど、それすら気にならないくらい気づけば私、夢中で猫さんを探していた。
木下あまね
木下あまね
いたらお返事して〜
木下あまね
木下あまね
あんな小さな体で
……風邪なんか引いたら大変
どれくらい探しただろう。
ベンチの裏や花壇、猫さんが入れそうな建物の狭い隙間なんかを覗き込んで、必死に探すけれど……。

どこにもいない。
江本 夏樹
江本 夏樹
……もういい
木下あまね
木下あまね
江本くん……良くないよ!
猫さん、見つけてあげなきゃ
江本 夏樹
江本 夏樹
お前は簡単に人を信じすぎだ
木下あまね
木下あまね
……え、
雨の中、やけにクリアに聞こえる江本くんの声。

それって……
江本 夏樹
江本 夏樹
いなくなったなんて嘘だ。
アイツは雨があたらない場所に
ちゃんと避難させてある……
江本 夏樹
江本 夏樹
騙された気分は?
木下あまね
木下あまね
……っ
ホロホロと涙が溢れる。
冷たい雨と、温かい涙が入り交じって頬を伝っていく。

見上げた江本くんの表情は、涙で滲んでよく見えないけれど、私が思うことはただひとつ。
木下あまね
木下あまね
良かったぁ……
江本 夏樹
江本 夏樹
っ……何言って、
木下あまね
木下あまね
猫さん、無事ってことだよね
……良かった、ほんとに良かった
泣き笑いって、こういう事を言うんだろうな。
ホッとしたら涙が溢れて、後からジワジワ笑顔が広がっていく。

……猫さんが雨に濡れてなくて良かった。
江本 夏樹
江本 夏樹
騙されたんだぞ、お前
木下あまね
木下あまね
こんな大掛かりなドッキリ初めてで
ちょっとビックリしたけど
木下あまね
木下あまね
猫さんが無事ならそれでいいや
雨がどんどん体から熱を奪っていく。
冷えきった指先にはもう力が入らない。

こんな状況なのに、ヘラヘラと笑う私に江本くんの眉間のシワが深まって───。
江本 夏樹
江本 夏樹
馬鹿じゃねぇの
───フワッ

雨から守るみたいにすっぽり頭からかけられた、江本くんのブレザー。

ブレザーごと引き寄せられて、縮まる江本くんとの距離。

まるでスローモーション。

至近距離で目と目が合って、整った江本くんの唇が───。
木下あまね
木下あまね
!?
私の冷たい唇に、熱を分ける。
木下あまね
木下あまね
え、もと……くん
江本 夏樹
江本 夏樹
お前見てるとムカつくんだよ
離れ際、捨て台詞をひとつ。

雨に打たれながら去っていく後ろ姿を、追いつかない思考のまま呆然と見つめる。

……キス、されてしまった。

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