3月。
僕は最期のピアノのコンクールに出場していた。
5歳の頃からしているピアノは11年間も続いていた。
舞台袖からピアノの近くまで歩き、審査員たちに軽く頭を下げる。
舞台を照らすスポットライトと人々の目線は、僕の体温を上昇させた。
しっかり弾けるかなんて僕の場合は二の次だ。
一番大切なことは、
楽しく弾くこと。
ただ、それだけを胸に椅子に座る。
深呼吸をし、鍵盤に指を添える。
さぁ、奏でよう。
僕だけの、僕にしか弾けない音色を。
***
僕は満足だった。
決して拍手が多いわけじゃないけど……。
また、審査員に頭を下げて舞台袖に戻る。
戻るときにふと僕の目に映ったのは、少し年上だと思われる女の子。
腰のあたりまである黒髪はサラサラでいかにも清楚な子だった。
アナウンスが聞こえた。
『25番。朝比奈 萌夏』
黒の落ち着いた膝丈のワンピースを翻し、歩いていく。
僕は、ちょっとした好奇心────いや、彼女に見惚れてしまったから
"そんな彼女の演奏を近くで聞いてみたい"
そう思って舞台袖にいることにした。
聞こえてきた音色は優しくて温かい。
それでいて、音が1音も外れていない。
完璧だ。
でも……
なんだろう。
きっと、この女の子は楽しそうじゃない。
弾かされている。そういった表現のほうが正しいのかもしれない。
何でだろう…。
ねぇ、どうしてそんなに悲しそうに弾くの?
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編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。