第64話

月光
2,314
2024/04/02 11:47





廊下へ出て、隣の部屋へと入る。


棚にずらりと並ぶ、本やDVD、CDにレコード。
大音量で音楽を聴きたい時、大画面で昔の映画を観たい時、後はゆっくり本を読みたい時なんかはこの部屋を使っている。


けれど明かりをつけるとまず目につくのは、圧倒的な存在感を示す、艶やかな黒だろう。


母が使ってたらしいグランドピアノ。


昔ジンさんに、なんでそのピアノを持ってきたんだと問われたことがあった。


ジンさんは俺の隠れた恋しさや執着心からだと睨んでたみたいだが、あいにくそんな感傷はひとつもない。


ただ単に良い品だったからだ。


それに、俺は自分の感情に左右されるような人間じゃないし、その感情すら人より希薄な自覚もある。


さらに言えば、便宜上「母」と口にしているだけで、彼女についての記憶はほぼ残ってない。だから執着もなければ恨みなんてものもなかった。






グランドピアノの前に立ち、久しく触れてなかった蓋を撫でる。


『いいかテヒョン、トップに立つ人間は、仕事が出来るだけじゃ駄目だ』


そう祖父に言われるがまま、教育の一環として習っていただけのピアノ。


聴く分には心地よかったが、弾くことに喜びを見いだせたことはなかった。



黒く艷めいた、重い蓋を開ける。


頭に浮かんでるのは、さっき思い出した曲。






ピアノ・ソナタ第14番ーー『月光』


あまりに有名なこの『月光』というタイトルは、実はベートーヴェンがつけたものじゃない。彼の死後、音楽評論家でもあった詩人が、「月光の波に揺らぐ小舟のようだ」と評したイメージから広まったものだ。


つまりベートーヴェンは月などイメージしてなかった可能性があるが、月の光が浮かぶ湖を見て、まんまとこの曲を思い出してしまった自分も、結局はその先入観に囚われているんだろう。


それに月の光と言えばドビュッシーだろうとも思うが、浮かんだのは何故かこの曲だった。






ーーポーン、



Cの鍵盤に指を沈めると、夜の静寂がそっと震えた。


調律は年に1回ソフさんが手配してくれてるから、音に狂いはない。



ーーポーン、



曲を奏でる際、一番重要なのは技巧ではなく、作者が込めた曲の裏の意味を読み取ることだと、ピアノの教師から教わったことがある。


『月光』は静かで暗い旋律から始まり、終盤へ向かうにつれ激しくなっていく。


身分違いで叶わなかった恋の相手、ジュリエッタ。この曲はベートーヴェンがその少女へ捧げたものであり、だから激しい恋の感情の荒波を示しているのだろう。

と、教師はそう熱く語っていたが、当時高校生だった俺は、冷めた気持ちで聞いていた。


確かにベートーヴェンはジュリエッタを愛していたようだが、彼女へは『月光』ではなく、本当は別の曲を献呈する予定だった。

となると愛した少女への激しい想いが込められているとする背景は、もちろんその可能性がない訳じゃないが、信憑性が低いのでは? と考えてしまう。


そしてそもそも、俺が恋の感情というものが分からなかったというのもあって、当時まったく感情移入できなかった曲だ。


自分で解釈を得ようとする熱心な生徒でもなかったから、この曲に特に思い入れもなかったが、さっきふと思い出した時、何故か無性に弾きたくなった。




本当にこの曲が、教師の言っていたような恋の感情の荒波を示しているものかは分からない。

ただ仮に、その背景に沿って曲を奏でるとすれば、愛おしい、という感情を知った今の自分なら、少しは何かを感じられるかもしれない。






椅子を引き出し、腰を下ろす。


ペダルを踏んで、位置と踏み心地を確かめる。


瞼を閉じ、息を吸う。



テヒョン
テヒョン
すぅ、、


テヒョン
テヒョン
はぁ、、




緩やかに吐き出し、瞼を開く。


白と黒。


視界はモノトーン。


光沢を放つ鍵盤に、指を降ろす。









第1楽章


何も無い闇の世界に、音が降りてくる。


その音に象られていく、美しい子ども。


静かに、厳かに。


そう律していても、囚われ乱れゆく心。


暗い苦悩に浸りながらも、ゆらゆらと揺らめくひかりを時折感じる。


静かな祈りにも似た、密やかな想い。


募る感情を、指に乗せてーー







第2楽章


明るく可憐な旋律。


美しい花々、青々と茂る木々の間を、軽やかな足取りで抜けていく。


澄んだ湖面で弾む、ひかりと感情。


透明なきらめきを纏う、愛おしい笑顔。


繋いだ手から伝わる、あたたかさ。


癒されていく心を、奏でるようにーー







第3楽章


一気に駆け上がる音階。


胸を貫く激情、渦巻く深いかなしみ。


悲観の波に飲み込まれていく、心。


叩きつけるように激しく。


けれど壊れてしまわないよう繊細に。


狂おしいほどの想いを、鍵盤へ向けてーー















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