第70話

眩むような夏の話
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2020/08/02 11:31
【⚠︎注意⚠︎】
◆意味不明なもの早くも第2弾。
(今回も、小説風に書いた散歩日記みたいなやつです。)
◆前回同様、ノリと勢いと本能で書いた為に文章が多分結構めちゃくちゃです。
(誤字脱字は見逃して頂けると幸いです)
◆ひたっすらに長い。ただただ長い。
(時間があって究極に暇な時、「しゃーねぇ、ちょっくら覗いてみるか」くらいの感覚で読んでください)
◆正直、飽きた。という人はコメ欄へ。全部消します。





―――それでも良ければ、どうぞ




《レンズ越しに透過する》



とある、何でもない夏の日。
昨日と同様、特に変わり映えも無く訪れた祖父母の家。僕の家から車を飛ばせば、そう遠くないここには週末によく来ている。なので所謂、日課と呼ばれるものに分類されると思う。

畳の柔らかな藁の香りが何処と無く好きで、ここは畳の部屋が多い為にふわりと偶に鼻を掠める感覚が、実はそんなに嫌いじゃない。それこそ、惰性にも近しいそれかもしれないがそう思うと飽きそうだから、早々に忘れる事にしよう。
昼食を食べ終えてから、1時間から2時間。そろそろ、美味しくて涼しくて味わった素麺が消化し始めた頃か。今日は、そこまで風は強くない。少しだけ開けた窓から、網目をあっさりと潜り抜けて流れ込んでくるのは、服をほんのりとそよぐ程度。

椅子に腰掛けたまま振り返ってみれば、ガラス窓の奥には草木が影を作る庭と青空が覗き始めた厚い雲。午前中は晴れていたのだが、午後は曇りの予報。今日は外に出てもつまらないかもしれない、そう思って躊躇っていたのに。なんというタイミングで晴れてくれたのか。
でも、どうしよう。今日は行かない方がいいかな。出たら絶対また書きたくなってしまうし、そしたらみんな飽きるだろうか。
時計を見れば、丁度3時手前。散歩に行くには絶好の時間帯な事に加え、まるで外へ誘い出すように雲間から垣間見える蒼。先程まで薄く灰がかっていた影が、徐々に黒みを帯びる。陽光が地面を照り付けている証拠だ。
……やっぱり行きたいし、行こ。
随分とあっさり根負けした僕は、おもむろに財布から取り出した500円玉を握り締め、イヤホンを刺したままのスマホをポッケにがさつに突っ込んだ。耳に流している音楽は、つい今朝プレイヤーに追加した夏に似合う曲。

そして、今度は起きていた父と休んでいた祖母に「ちょっと散歩に行ってくる」とだけ声を掛けてから、すぐに玄関を出る。良いのか悪いのか、僕は吹っ切れるのが異様に早いのだろう。


そうして外に出てみれば、中に居る時は影が出ていないから少し暗いかと思っていたのだが、そんな事はなく。じわりとした夏特有の熱気を、すぐさま優しい風が振り払っていくような、かなり散歩日和な天気だった。

前回と同じルートではつまらない。あそこから景色は綺麗だが、短いスパンで何度も行けば飽きてしまうかもしれない。飽くのが嫌で怖かった僕は、堤防とはまた違った方角を向いた。ここは、歩いて10分〜15分程度の場所にコンビニがあったはず。そこを折り返し地点にして、ふらっと歩こう。そう、即決した。
決まってしまえば、勝手に足は動き出す。走るのは嫌なので、かなりマイペースに歩を進める。気の所為か、僕が外に出た瞬間から太陽が燦々と輝き出した。雲に隠れなくなったのは、暑いが何だかちょっと嬉しい気もして。そうやって、普段車で通る道を徒歩で歩いてみれば、案外新鮮な発見は多々あって。

5月頃に植えた苗はかなり育って青々しく、薄く青っぽい小さな蝶々が元気に飛び回っていた。近くの子供会の子達が育てている花も綺麗に咲き誇り、間近を通りかかった烏の羽は日に照らされて檳榔子黒と表現しても良いくらいだ。
緩やかで短めの坂の歩道を歩いていれば、昨日は感じなかった車通りの多さが目立つ。走り抜けていくエンジン音は颯爽としていて、時折混ざるバイクは近頃よく見かける。正直、父の影響か知らないがバイクは好きなので、近くを走った事に軽い感動を覚えながら歩き続けていた。

人の手が施されていないが為に、自由奔放に伸び伸びの道端の草木や、コンクリートの隙間から生える雑草。自然の生命力のたくましさを感じつつ、草の匂いを肺いっぱいに吸い込む。何だか、自然と同化してる気分だった。

同じ景色ばかりで嫌だなぁと漠然と思っていたここも、歩くだけでこんなに違うものなのかと驚いた程。逆方向を歩いただけで、見慣れた道の上を見ただけで。あれ?こんなに綺麗だったっけ、と思えるほどに心惹かれる風景がそこには広がっていて。世界は、狭いようで広いのもあるが、その狭い中にも多面性があるのだなと改めて認識する。
流れる川は以前の大雨の影響で、水位は下がったがまだやはり濁っている。汚いのかな、そう思って橋の上から覗き込めば、そこには空と太陽が綴じこめられていた。風のお陰で緩く広がる波紋がまた趣深く、目が痛くなるような眩しさを誇る太陽が、水面から僕の方を見ている。

決めた散歩コースを歩きながら、ずっと様々な空を撮っていて上にしか向けていなかったカメラを、今度は真下に向けてシャッターを切った。なぜだか分からないけど水面鏡が大好きな僕は、自然と笑みを零しながらどう撮ったら映えるだろうと模索しながら、パチリパチリと風景を切り取っていく。その事しか考えていないというのは、やはり楽しい。
車が通るのでその音が聞こえるように片耳だけ外したまま、ふと目線を落としたのは縁石。そう言えば小学生時代、この縁石の上をどのくらい歩けるか競った記憶がある。しかも中には、走れる模索もいたな、なんて。…そう思い出した途端、唐突に乗りたくなった。子供過ぎる。でも、その衝動を止める人は勿論いない訳で。

車が来ていない事を確認すると、興味本位で少し乗ってみる。久しく乗っていなかったからか、単純にバランス感覚が薄れているのか、すぐにふらついたが転ぶ事は無く、当時に戻ったみたいになって少し郷愁さえ覚えた。まだあの時から3年程しか経っていない…いや、体感的には“もう”なのかもしれない。
下り坂になれば、昔に舗装されて少しでこぼこな歩道は唐突に終わりを告げ、白線の内側を歩き出す。ここらでは、歩道があるだけでもレアだ。そうして、やはり眺めるのは空ばかり。勿論、前を見ては歩くがつい気を取られて、そのコンビニまで近道をしようと思った細い道を、通り過ぎてしまっているのに途中で気付いた。慌てて戻ったが、何だか少し恥ずかしくて小走りになる。

そして、折り返し地点であるコンビニに辿り着くと、最初から買おうと思っていたサイダーを売っている飲み物コーナーに一直線に行く。空の青ばかり眺めていたらラムネを思い出したが、そんな物売っていなかったので、サイダーで代用してすぐにコンビニを出た。

冷えていたそれは首に当てるとひんやりとしていて気持ち良かったが、それより体が水分を欲していたのですぐにキャップを開けて1口飲む。久々に飲むと思っていたよりも甘かったが、炭酸の程よい痛みが舌を刺激して喉越しも良く、買ってよかったと思わざるを得なかった。

そして、辿った道を反対側から歩いて行く。空は、少し時間が経つ度に姿を変えるから見ていて飽きない。変化し続けるものは新鮮味が失われないので、感嘆の息さえ溢れる程に綺麗になる時もある。


そのまま、真っ直ぐ道なりに行って大人しく帰ろうとも思ったのだが、来る途中に見つけてしまったのだ。橋の手前に、あの堤防に直結する道があったのを。飽きは時間が経たねば取り払えない、やはり今回はやめておこうかとも思ったのだが。

見上げた空に浮かぶ夏の雲と、光を絶やす事が無い太陽、透き通りそうな奥の蒼。これら全てが混ざり合ったものが、遮蔽物の無い所で見れれば最高のシャッターチャンスだろう。というか単純に、あの開けた道にもう一度行きたい。という本能に駆られ、気付けばその道を曲がっていた。
自分の背丈程にある草が両端にある道は、正しくあの堤防の一本道そのものだった。道中で、羽化したばかりの子供の蜻蛉が居たのを微笑ましく眺めたり、モンキチョウやモンシロチョウの戯れがそこはかとなく可愛かったり、蜜蜂と思わしき蜂がコンクリートをうねうねと飛んでいたから、真似して後ろから同じようにうねうねと歩いたり。
やはりそこから見上げる風景は、唯一無二で独り占め出来る絶景スポットだ。祖父母の家を越した事さえ認識が遅れるほど、空に夢中になっていた。只管に向けたカメラの音は、蝉と鳥の鳴き声が渦巻く森からの自然的な音にさえ混ざり合い、その感覚が勝手に自然に寄り添っている気がして、心地良い。

開放感と爽快感に、ここまで身を委ねられる場所は他には無い。風を感じたくて小さく結っていた髪を解けば、黒髪がぶわっと後ろから吹いた強めの壁に舞いあげられる。服の裾やイヤホンのコードも浮いて、何だか空に連れて行かれそうだなと感じた。それさえ、悪い気がしなかった僕は重症だろうか。
ペットボトルさえ汗ばんでいるのに気付いて、再び蓋を開けて喉奥にサイダーを流し込めば、早くも若干ぬるくなっていた。ずっと太陽光に照らされっぱなしだったから、当たり前だ。そして、また自然を撮ろうと思い、ペットボトルを置いて視線を上に向けようとした。

だが、その視界の端でサイダーの中にさえ太陽が綴じこめられているのが見えた。その瞬間、コンクリートの上に置いたサイダーの中へ、カメラを近付ける。川も綺麗だったが、透明な炭酸水の中もこんなに綺麗なのか、と新たな発見を手に入れながらシャッターを切った。

何となく空に翳した手のひら。遠く深い、底なんてない青に見蕩れている。そう言えば以前、国語の教科書に載っていた詩に好きな表現があった。「空に手を浸したい」題名はド忘れしてしまったが、この1文だけが妙に記憶に残っている。

空なんて、どうやったって届かない。手が届くようなものではないのに。水に対して使う表現を、空に対して使うという手法に自分でも驚く程に、感心したのを覚えている。なんて、なんて綺麗な表現なんだろうって。

それをふと、やってみたくなっただけ。本当に手が届くか届かないか、空に手を浸すなんて物理的には無理なんて分かりきっているのに。でも、そうやって空に向かって手を伸ばしたまま、イヤホンを外して目を閉じる。そのまま自然の音を耳に馴染ませて、ゆっくり瞼の帳を開く。

すると、はみ出るように広がる蒼しか視界には入っていない。


それを見た瞬間、自分が空に透過してしまったかのような錯覚に陥った。

ほんの一瞬でしか無いし、馬鹿げた事かもしれない。それでも、あの時感じたのは空と一体になったかのような。蝉時雨さえ遠ざかる日差しが、僕を迎えに来たような。人工的なものなんて何も無い。自然に囲まれたここだから出来る、仮想なんかじゃない実体験。
車の音は、もう聞こえない。両の鼓膜に響き渡るのは、蝉と鳥と川と音楽。つい口ずさんだ歌を歌いながら、昨日渡った堤防の道をもう一度足跡を辿るように歩いて行く。偶に、大きく育った木々に太陽がまばらに散らばり、木漏れ日となる事もあった。

ずっと陽光を浴び続けるのも体が疲れるだろうと、葉っぱのカーテンとなる芝生の上に少し座り込む。歩いていた時は、じわりと滲む汗を拭うような風だったのが、今度は室内に居た時と同じく、軽く頬を撫ぜるような風になっていた。そろそろ良いだろうと立ち上がると、立ちくらみがする。これも全部夏のせいなのだ、と季節に押し付けてまた堤防のコンクリートを踏み締めた。
空の蒼を優しく薄く覆うベールのような雲も、入道雲のような夏を感じる雲も、ふわふわと空中を漂う綿あめのような雲も、煙のようにすぐに消えてしまいそうな儚い雲も、空という青しか描かれていないキャンバスの上では、自由に白が形を変えて遊んでいた。

それに勝手に目を奪われて、感動して、写真を撮っている。それだけ。なのに、何故こんなに心が軽くなるのか。人間は不思議な生き物だ。
…自分に起こった変化さえ、実感は無く。以前、「夏が僕を変えてしまった」と書いたが、実際感じている変化なんてそんなにない。あぁ、それは語弊がある。1つだけ、痛感した変化は



少しだけ、夏に焦がれる気持ちが芽生えた事だ。


本当は夏が嫌いである事に、変わりはないのかもしれない。実際、心の底から好きかと問われるとそうでは無いから。
…でも、嫌いだったものを好きになる感覚も、案外悪くは無いもので。

ふっと零した笑みが何に対してかなんて、分かるわけも無かった。



そんなどこにでもあるような夏の、ちょっと心に留まる話。
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ここまで読んでくださった方々、スクロールお疲れ様でした。
…脅威の5000字。全てに目を通して頂いた方、ただ無駄な時間を浪費させてしまい、本当に申し訳ございませんでした。


この際に撮った写真は、次のチャプターに載せます。
見たい方は是非、そちらもどうぞ。

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