前の話
一覧へ
次の話

第1話

時透無一郎という人間について
59
2021/03/26 00:29
私の師範、時透無一郎は記憶障害を抱えている。

見たこと聞いたこと感じたことをすぐに忘れてしまう。記憶を維持することが困難。

普段生活を共にする私の名前さえも平気で忘れてしまう。

本人がそれを苦にしているかと言われれば、それは分からない___だって彼は、自分が苦しんだことさえ忘れてしまうのだから。

忘れる側はお気楽だ。忘れてしまえばそれを思い出すことすらできないのだから、今後の人生において気に病んだりすることはない。

___だけど、忘れられる側の苦しみというのは計り知れない。どれだけ相手を想ったところで、忘れられてしまう。

拒否されるのではなく___忘却される。自分という人間を、否定するどころか向き合ってすらくれない。

まあこれは極論だが、そんな人間、最初から好きにならなければ良い___だけど、人間というのはそういう都合の良い頭の構造をしていない。

人は人を好きになる。まるでそれが、己に課せられた使命かのように。

私、あなたの名字あなたは「忘れられる側」の人間だった。そして情けないことに、時透無一郎を好きになってしまった。

それがどれだけ恐ろしいことか、自分も分かっていた。

…臆病な私は、忘れられることを恐れた。彼という世界から、私が排他されることを恐れた。

だから、悪足掻きをするようにこの備忘録を書く。

勿忘草色の表紙の備忘録。

彼に、忘れないでもらうための備忘録だ。

プリ小説オーディオドラマ