第5話

5話
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2023/01/21 04:00
 にこやかな笑顔を浮かべるその人は、透けていること以外は至って普通で、なんなら普通よりも整った顔立ちにドキドキしてしまいそうになる。……透けてさえいなければ。
 その人越しに教室の壁にある落書きすら見えてしまうこの状況を、私はどう理解していいのかわからずに立ち尽くしていた。
時岡和花
時岡和花
(いったいこの人は……誰……?)
 尋ねたいのに声が出なくてもどかしい。そんな私の反応をどう勘違いしたのか、目の前のその人は小さく笑った。
杉早暁斗
杉早暁斗
僕が怖くないの?
時岡和花
時岡和花
(……そういえば)
 私はその人の問いかけに首を振った。
 誰か、ということは聞きたいと思ったけれど、怖いかどうかと聞かれたら怖いわけではない。……何故だか理由はわからないけれど。
 黙ったままの私に、その人は何かに気づいたように片眉を上げた。
杉早暁斗
杉早暁斗
……声が出ないの?
 今度は頷く。すると、目の前のその人は少し考えるような素振りを見せた後、黒板の粉受に置いてあったチョークを指さした。
杉早暁斗
杉早暁斗
それ使ってよ。僕は杉早暁斗。君は?
 私は言われるがままにチョークを手に取り、黒板に『時岡ときおか和花わか』と書いた。
杉早暁斗
杉早暁斗
和花
時岡和花
時岡和花
……っ
 唐突に名前を呼ばれ、心臓が飛び跳ねるように高鳴った。まさか下の名前で呼ばれるなんて思ってもみなかった。そんな動揺を悟られないように私はチョークで黒板に書いた。
時岡和花
時岡和花
『すぎはや君は』
杉早暁斗
杉早暁斗
樹木の杉に早起きの早で杉早って書くんだ
時岡和花
時岡和花
『杉早君?』
杉早暁斗
杉早暁斗
そうそう。あ、でも呼び方は暁斗でいいよ
時岡和花
時岡和花
(え、でも急に名前でなんて……)
 向こうが呼び捨てにしてきているのだから、別に私が名前で呼んでも変じゃないのかもしれない。でも仲良くもない、それも今日会ったばかりの人を名前で呼ぶのは少し抵抗があった。
 そんな私の動揺を見透かしたのか、杉早すぎはや君は小さく笑った。
杉早暁斗
杉早暁斗
名字、好きじゃないんだ
時岡和花
時岡和花
『どうして?』
杉早暁斗
杉早暁斗
母親の再婚で名字が変わったから
 少し寂しそうに頬を歪めて笑う杉早――暁斗あきと君の姿に、私は胸の奥がギュッとなった。
時岡和花
時岡和花
『ごめんなさい』
杉早暁斗
杉早暁斗
ん?
時岡和花
時岡和花
『言いたくないこと、言わせちゃった』
 申し訳なくて俯く私の頭上でふっと笑みのこぼれる音が聞こえた。
杉早暁斗
杉早暁斗
大丈夫だよ
 優しく降り注ぐ言葉に顔を上げると、暁斗君は優しく微笑んでいた。
 私はチョークをギュッと握りしめると、黒板に言葉を綴る。カツカツと黒板にチョークの当たる音だけが音楽室に鳴り響いた。
時岡和花
時岡和花
『声が出ないの。家の外でだけ。でも耳は聞こえるから話してることはわかるよ』
杉早暁斗
杉早暁斗
家の外で……?
時岡和花
時岡和花
『場面緘黙症(選択性緘黙)って言うらしい』
杉早暁斗
杉早暁斗
そう、なんだ
 その言葉を聞いた瞬間、私は乾いた笑いが出そうになって必死に堪えた。暁斗君も担任やクラスメイト、それから両親と一緒だ。
 家では声が出るなんておかしい。学校でだけ出ないなんて変だ。嫌なことがあってそれを喋らないことでアピールしようとしているんだろう。自分を正当化するための無言じゃないのか。
 いろんな言葉を投げつけられた。病院の先生が言ったのを直接聞いている両親でさえ「ちゃんと喋りなさいね」と言うぐらいだ。又聞きの他の人が信じてくれるわけがない。みんな私が自分に都合のいいことを伝えているとそう思っている。
杉早暁斗
杉早暁斗
それじゃあ、辛かったね
時岡和花
時岡和花
(え……?)
 だからこそ、そのあと暁斗君が続けた言葉は、私にとって意外で、そして泣きそうなぐらいに嬉しかった。
杉早暁斗
杉早暁斗
そういう特殊な条件かでしか起こらないことってなかなか信じてもらえないだろうし、きっと辛い思いもしてきたんじゃない?
時岡和花
時岡和花
(あ……)
 心配そうに言う暁斗君の言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
 誰も信じてくれなかった。どれだけ伝えてもわかってくれなかった。信じて欲しい人が信じてくれなかったのに、どうして初めて会った暁斗君は、私の言葉を気持ちをわかってくれるのだろう。
杉早暁斗
杉早暁斗
泣かないで
 気づけば私の頬を涙が伝い落ちていた。相変わらず声は出ない。何か劇的な変化があったわけでもない。でも……。
時岡和花
時岡和花
(どうしてだろう……)
 胸の奥があたたかくなったような、そんな気持ちになるのは。

 
 
杉早暁斗
杉早暁斗
……そっか、それでここに来たんだ
 黒板にこれまでのことを書き連ねた私に、暁斗君は眉をひそめながらため息を吐いた。
杉早暁斗
杉早暁斗
あの先生、相変わらずなんだな
時岡和花
時岡和花
『担任のこと、知ってるの?』
杉早暁斗
杉早暁斗
僕もあの先生に受け持ってもらったことがあったからね
 相変わらず透けたままの暁斗君に、私はずっと思っていたことを尋ねた。
時岡和花
時岡和花
『暁斗君は、幽霊なの?』
杉早暁斗
杉早暁斗
そうだよ
 あっさりと答えると、暁斗君は自分の手を私の手に合わせた。その手はスルッと私の手を通り抜けてしまう。それは暁斗君の存在が生きている人とは違う何よりの証明だった。
杉早暁斗
杉早暁斗
ビックリした? 気持ち悪くない?
時岡和花
時岡和花
『大丈夫』
杉早暁斗
杉早暁斗
そっか、ありがと
 優しく笑うと、暁斗君は思い出したかのように尋ねた。
杉早暁斗
杉早暁斗
そうだ、課題曲ってなに?
時岡和花
時岡和花
『課題曲?』
杉早暁斗
杉早暁斗
合唱コンクールの。もう決まってるでしょ? 何を歌うの?
 私は鞄に入れたままの楽譜を取り出すと暁斗君に見せる。暁斗君は少し驚いたような表情を浮かべたあと、ピアノへと向かった。
 そして――。
杉早暁斗
杉早暁斗
今の僕が、唯一触れられるものなんだ
時岡和花
時岡和花
(わ……凄い)
 譜面を見ることなく、暁斗君は課題曲を奏で始める。その姿に、奏でる音楽に思わず時が経つのを忘れるぐらい聞き惚れていた。

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