にこやかな笑顔を浮かべるその人は、透けていること以外は至って普通で、なんなら普通よりも整った顔立ちにドキドキしてしまいそうになる。……透けてさえいなければ。
その人越しに教室の壁にある落書きすら見えてしまうこの状況を、私はどう理解していいのかわからずに立ち尽くしていた。
尋ねたいのに声が出なくてもどかしい。そんな私の反応をどう勘違いしたのか、目の前のその人は小さく笑った。
私はその人の問いかけに首を振った。
誰か、ということは聞きたいと思ったけれど、怖いかどうかと聞かれたら怖いわけではない。……何故だか理由はわからないけれど。
黙ったままの私に、その人は何かに気づいたように片眉を上げた。
今度は頷く。すると、目の前のその人は少し考えるような素振りを見せた後、黒板の粉受に置いてあったチョークを指さした。
私は言われるがままにチョークを手に取り、黒板に『時岡和花』と書いた。
唐突に名前を呼ばれ、心臓が飛び跳ねるように高鳴った。まさか下の名前で呼ばれるなんて思ってもみなかった。そんな動揺を悟られないように私はチョークで黒板に書いた。
向こうが呼び捨てにしてきているのだから、別に私が名前で呼んでも変じゃないのかもしれない。でも仲良くもない、それも今日会ったばかりの人を名前で呼ぶのは少し抵抗があった。
そんな私の動揺を見透かしたのか、杉早君は小さく笑った。
少し寂しそうに頬を歪めて笑う杉早――暁斗君の姿に、私は胸の奥がギュッとなった。
申し訳なくて俯く私の頭上でふっと笑みのこぼれる音が聞こえた。
優しく降り注ぐ言葉に顔を上げると、暁斗君は優しく微笑んでいた。
私はチョークをギュッと握りしめると、黒板に言葉を綴る。カツカツと黒板にチョークの当たる音だけが音楽室に鳴り響いた。
その言葉を聞いた瞬間、私は乾いた笑いが出そうになって必死に堪えた。暁斗君も担任やクラスメイト、それから両親と一緒だ。
家では声が出るなんておかしい。学校でだけ出ないなんて変だ。嫌なことがあってそれを喋らないことでアピールしようとしているんだろう。自分を正当化するための無言じゃないのか。
いろんな言葉を投げつけられた。病院の先生が言ったのを直接聞いている両親でさえ「ちゃんと喋りなさいね」と言うぐらいだ。又聞きの他の人が信じてくれるわけがない。みんな私が自分に都合のいいことを伝えているとそう思っている。
だからこそ、そのあと暁斗君が続けた言葉は、私にとって意外で、そして泣きそうなぐらいに嬉しかった。
心配そうに言う暁斗君の言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
誰も信じてくれなかった。どれだけ伝えてもわかってくれなかった。信じて欲しい人が信じてくれなかったのに、どうして初めて会った暁斗君は、私の言葉を気持ちをわかってくれるのだろう。
気づけば私の頬を涙が伝い落ちていた。相変わらず声は出ない。何か劇的な変化があったわけでもない。でも……。
胸の奥があたたかくなったような、そんな気持ちになるのは。
黒板にこれまでのことを書き連ねた私に、暁斗君は眉をひそめながらため息を吐いた。
相変わらず透けたままの暁斗君に、私はずっと思っていたことを尋ねた。
あっさりと答えると、暁斗君は自分の手を私の手に合わせた。その手はスルッと私の手を通り抜けてしまう。それは暁斗君の存在が生きている人とは違う何よりの証明だった。
優しく笑うと、暁斗君は思い出したかのように尋ねた。
私は鞄に入れたままの楽譜を取り出すと暁斗君に見せる。暁斗君は少し驚いたような表情を浮かべたあと、ピアノへと向かった。
そして――。
譜面を見ることなく、暁斗君は課題曲を奏で始める。その姿に、奏でる音楽に思わず時が経つのを忘れるぐらい聞き惚れていた。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。