ホームルームの終わりを知らせるチャイムが鳴り響く。私は席を立つと教室をあとにする。周りから変に思われないぐらいの歩く速さで、でも気持ちだけは急いていた。
スカートのポケットに入れた鍵をギュッと握りしめる。
急いでいるときに限って声をかけられる。私は足を止め、振り返る。そこには担任の姿があった。
何も答えない私に、担任はため息を吐いた。
それだけ言うと担任は通りがかった教頭先生を呼び止める。私は二人に頭を下げてその場を立ち去った。
あの日から私は毎日、旧校舎の音楽室へと通っていた。勿論声は未だに出ないし、歌を歌うわけでもない。
けれど、旧校舎の音楽室の扉を開け、ピアノの前に座る暁斗君の姿を見ると、どこか緊張がほぐれるような、水の中から浮かび上がって、それまで止めていた息を吐き出すことができたときのような、そんな気分になれた。
理由はわからない。けれど、暁斗君のそばはどこか居心地の良さを感じる。
立ち尽くしたままの私に、暁斗君が尋ねる。小さく首を振ると「そっか」と言って、それ以上深く聞いてくることはない。こういうところも暁斗君から感じる心地良さの一つなのかもしれない。
今はもう引っ越していなくなった親友のことを思い出す。親友と一緒にいるときも居心地が良かった。もしかしたら暁斗君に親友の存在を重ねているのだろうか。だからここに足が向かって……。
いつの間にかすぐそばに来ていた暁斗君が、少し屈み込むようにして私を覗き込んだ。
思った以上に距離が近くて、思わず仰け反ってしまう。その拍子に黒板に頭をぶつけた。
声が出るわけもなく、声にならない叫び声を上げながら頭を押さえる。そんな私を心配そうに見つめる暁斗君の表情が曇って見えた。
ようやく立ち上がれた私は黒板に書く。それに気づいた暁斗君は寂しそうに微笑んだ。
透けて向こう側の見える手を、暁斗君は悲しげに見つめる。
声が出せないのがこれほどまでにもどかしいなんて思わなかった。
私は痛む頭から手を離すと、粉受にあったチョークを取って黒板に殴り書いた。
それ以上、上手く言葉を紡ぎ出せない。感情だけが先走り、目尻から溢れた涙が頬を伝い落ちていく。泣きたいわけじゃないのに、声が出ないことが、言葉にならないことが悔しくて仕方がない。
しゃがみ込んで膝に顔を埋める私の隣に座ると、暁斗君は何度も何度もその言葉を繰り返し続けた。
暫くして、暁斗君がポツリと言った。
暁斗君は自分の透けた手をひらひらとさせる。その仕草がやけに悲しげに見えて胸が痛くなる。
確かにそうだ。幽霊となって一人きりで旧校舎の音楽室にいる暁斗君の名前を呼ぶ人はもういない。
私は黙ったまま頷いた。
私が誰かの名前を呼ぶことはなくても、私の名前は暁斗君が、両親が、それに時折先生も呼んでくれる。だけど暁斗君の名前を暁斗君に対して呼べるのは、もう私しかいない。
名前を呼ぼうと口を開けてみる。喉の奥まで出かかった言葉は、音になることなく消えていく。
暁斗君は首を振ると言う。
寂しそうに微笑む暁斗君に、私は黙ったまま頷くことしかできなかった。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。
登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。