第19話

19話
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2023/04/29 04:00
 合唱コンクール当日の朝、いつもより一時間も早く目が覚めた。着慣れたはずのセーラー服を着ようとして、前後ろ逆に着てしまった。朝ご飯は上手く喉を通らず、靴を履こうとしてつんのめって下駄箱で肩をぶつけた。
 やっぱり今日は普段通りとは行かない。緊張もしてるし、脂汗が出るぐらい胃も痛い。ソロパートで失敗したらどうしようと思うと逃げ出したいぐらいだった。でも、それと同じかそれ以上に、今日を迎えることが怖かった。暁斗君にはああ言ったけれど、今までに比べるとどうしても会いに行ける頻度は少なくなってしまう。勝手に旧校舎の鍵を開けてるのがバレたら、立ち入りできないように厳重に封鎖されてしまうかもしれない。それでも、会える限り会いに行こう。私が、暁斗君に会いたいから。
 学校に着くと、私の足は自然と旧校舎の音楽室に向かっていた。薄暗い夕方はどこか不気味な旧校舎も、この時間だとあちこちの窓から光が入って気味悪さはこれっぽっちもなかった。
 ポケットの中から鍵を取り出すと、慣れた手つきで扉を開けた。開いた扉の先にいた暁斗君は、私の姿を見て優しく微笑んだ。
杉早暁斗
杉早暁斗
来ると思った
時岡和花
時岡和花
だって
杉早暁斗
杉早暁斗
来て欲しいなって思ってた
時岡和花
時岡和花
え……?
杉早暁斗
杉早暁斗
歌うでしょ?
 小さく頷くと、ピアノの前に座る暁斗君の近くに立つ。何度も聞いたメロディを暁斗君が奏で始めると、私は息を吸い込んだ。
時岡和花
時岡和花
――ふう
 暁斗君に弾いてもらって一曲通して歌う。思ったよりもきちんと声は出た。ソロパートも最初の頃に比べたらしっかりと音を取れて、喉も開いていたように自分では思う。
時岡和花
時岡和花
どう、だった?
杉早暁斗
杉早暁斗
うん、バッチリだよ。本番もこの調子なら大丈夫だと思うよ
 暁斗君の言葉にホッとした。誰に言われるよりも暁斗君に言われるのが一番嬉しいと思うのは、今まで私が歌うのをずっと聞いてきてくれたから、だけではないことはもうわかっている。
時岡和花
時岡和花
……ねえ、暁斗君
 口の中が乾いて、少しだけ声が裏返る。不思議そうに首を傾げる暁斗君に緊張していることを気取られないように咳払いを一つして、それから口を開いた。
時岡和花
時岡和花
よかったら、今日の合唱コンクール、聞きに来てくれないかな
杉早暁斗
杉早暁斗
え……?
時岡和花
時岡和花
ほ、ほら今までずっと練習に付き合ってくれたし、頑張ってソロパートを歌うところも聞いて欲しいし、それから、えっと
 平常心で、と思えば思うほど話すスピードは速くなり、上手く言葉も出てこない。せっかく考えてきた言葉の三分の一も伝えることができなかった。
 もっと自然に誘うつもりだったのに。変に思われなかっただろうか。不安に思う私の耳に、暁斗君の声が聞こえた。
杉早暁斗
杉早暁斗
……和花
 私の名前を呼ぶ暁斗君の声色で、答えがわかった気がした。
杉早暁斗
杉早暁斗
ごめん
時岡和花
時岡和花
そ……っか
 平静を装うとするけれど、動揺が隠せない。頭を殴られたような、心臓を鷲づかみにされたような衝撃を受けた。
 心のどこかで断られることもある、とそう思いながらも、それでももしかしたら暁斗君なら「わかった」と言ってくれる。そんな根拠もない期待を抱いていたことに気づかされて、恥ずかしさにこの場所から逃げ出したくなる。
時岡和花
時岡和花
そ、そっか。ごめんね、変なこと言って! 忘れてくれていいから!
杉早暁斗
杉早暁斗
和花、違う
時岡和花
時岡和花
ううん、いいの。そうだよね、合唱コンクールなんて見に来たって楽しくもなんともないしね。うん、ホントごめん
杉早暁斗
杉早暁斗
和花! ……僕の話を聞いて
 来たくない理由なんて聞きたくなくて、暁斗君の言葉を遮るようにして話す私の言葉を、暁斗君が止めた。
 これ以上、逃げることはできない。
時岡和花
時岡和花
……うん
 頷いた私に、暁斗君はもう一度「ごめんね」と言った。
杉早暁斗
杉早暁斗
行きたくないわけじゃないんだ。僕もできることなら、和花の歌を聴きたい
時岡和花
時岡和花
なら、どうして……?
杉早暁斗
杉早暁斗
僕は旧校舎の音楽室に住む幽霊だから、ここから出られないんだ
時岡和花
時岡和花
あ……
 どうして今まで気づかなかったんだろう。初めて会った日から今日まで、暁斗君はずっとこの音楽室にいた。黒鍵を持ってきたときも、暁斗君は音楽準備室に足を踏み入れることはなかった。踏み入れなかったんじゃない、踏み入れることができなかったんだ。
時岡和花
時岡和花
わた、し……気づかなくて……ごめんな、さい……
杉早暁斗
杉早暁斗
和花、謝らないで
時岡和花
時岡和花
でも……
杉早暁斗
杉早暁斗
ね、黒鍵を出して
 暁斗君に促されるように、私はポケットから黒鍵を採りだした。手のひらに載せた黒鍵に、暁斗君はそっと手を伸ばす。黒鍵にも私の手にも暁斗君が触れることはないけれど、でも手が重ねられた瞬間、暁斗君のぬくもりを感じたような、そんな気がした。
杉早暁斗
杉早暁斗
きっと大丈夫。上手くいく
時岡和花
時岡和花
……うん
杉早暁斗
杉早暁斗
不安になったらこの黒鍵を握りしめて。きっと僕と一緒に練習したことを思い出せるから
時岡和花
時岡和花
……うん
 私は小さく頷くと、黒鍵をそっと握りしめた。先程感じたぬくもりが、手のひらを通じて私の心に届いた気がした。
 緞帳の向こうからざわめきが聞こえる。もうすぐアナウンスがあって、緞帳が上がれば私たちのクラスの歌う番だ。
 心臓が壊れそうなぐらい痛い。何度も何度も深呼吸を繰り返すけれど、どうも落ち着かない。
 もう少し、もう少し待って。そんな私の思いとは裏腹に、アナウンスが始まり、無情にも緞帳は上がった。
 指揮棒が振り下ろされ、クラスメイト達とともに歌い始める。最初の一音は外しそうになったものの、そのあとは順調に歌うことができた。これなら大丈夫。そう思っていた。
 ソロパートの数小節前、突然声が出なくなるまでは。

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