第9話

9話
2,918
2023/02/18 04:00
時岡和花
時岡和花
ゲホッゴホッ……
 加減することなく大声で叫んだせいで咳き込みその場に蹲る。咳き込みすぎて涙さえ出てきた私の前に誰かの気配を感じた。
 そっと顔を上げる。するとそこには、呆然と立ち尽くす暁斗君の姿があった。
杉早暁斗
杉早暁斗
和花……
時岡和花
時岡和花
あき、と……くん
杉早暁斗
杉早暁斗
もう一度、呼んで……?
時岡和花
時岡和花
暁斗君! 暁斗君、さっきはごめんなさい! 私……私……!
 必死に謝る私に、暁斗君は静かに首を振ると目線を合わせるように私の前にしゃがみ込んだ。
杉早暁斗
杉早暁斗
声が出るように、なったんだね
時岡和花
時岡和花
暁斗君に謝らなきゃって
杉早暁斗
杉早暁斗
僕に?
時岡和花
時岡和花
私……さっき酷いこと言っちゃって……あんなこと、思ってもないのに……
 話しながら手が震える。言葉で誰かに想いを伝えるのがこんなにも緊張するということを、怖いということを忘れていた。
 言葉だけじゃない。私はこの一年……ううん、もうずっと自分の気持ちを押し殺してきたのかもしれない。そうすることで、きっと逃げていたんだと思う。誰かにわかってもらうことからも、そして誰かをわかろうとすることからも。
杉早暁斗
杉早暁斗
わかってる。大丈夫だよ
時岡和花
時岡和花
ごめんなさい
杉早暁斗
杉早暁斗
うん……。僕の方こそごめん。和花が本当にああいうことを思って言ったんじゃないってことはわかっていたのに、あんな子どもみたいな態度取って。驚かせたよね。心配もさせたと思う。本当にごめん
 私は必死に首を振る。暁斗君はこれっぽっちも悪くない。悪いのは全部私なんだから。
時岡和花
時岡和花
暁斗君は悪くない。私こそごめんなさい
杉早暁斗
杉早暁斗
和花
時岡和花
時岡和花
ごめんなさい。本当に、ごめんなさ――
杉早暁斗
杉早暁斗
和花
 暁斗君は私の声を遮るようにしてもう一度名前を呼んだ。
杉早暁斗
杉早暁斗
ありがとう
時岡和花
時岡和花
暁斗君……?
 言葉の意味がわからなくて、思わず首を傾げる。責められることはあっても、お礼を言われるようなことなんて一つもしていない。
 そんな私に暁斗君はもう一度「ありがとう」と言って微笑んだ。
杉早暁斗
杉早暁斗
本当にもう一度名前を呼んでもらえるなんて思ってもみなかった
時岡和花
時岡和花
あ……
杉早暁斗
杉早暁斗
だから、ありがとう。和花に名前を呼んでもらえて嬉しかった。……和花だから、嬉しかった
 はにかむように笑顔を浮かべる暁斗君の姿を思わず見つめてしまう。
杉早暁斗
杉早暁斗
和花?
時岡和花
時岡和花
な、なんでもない!
 見惚れていたことを気づかれるのが恥ずかしくて、私は慌てて首を振った。心臓がいつもよりもうるさく感じた気がした。
 
 
 その日から、私が話せる場所が家だけじゃなくなった。とはいえ、相変わらず旧校舎の音楽室以外では声は出ない。
 一度、教室や他の場所でも出るのでは、と思って試してみたけれど、声が出ることはなかった。
杉早暁斗
杉早暁斗
それでも、声が出る場所が増えたのはいいことだよ
 放課後、旧校舎の音楽室でピアノの横に立つ私に暁斗君は言う。ピアノの前に置かれた長方形の黒い椅子に座り、白く長い指で白鍵と黒鍵を器用に叩きメロディを奏でる。
 もう何回も聞いた課題曲。いつでも口ずさめるぐらいには聞き馴染んでいた。暁斗君の奏でるメロディに合わせて私は小さな声で歌う。
時岡和花
時岡和花
(もしかして……)
 暁斗君は私がいつか声が出るようになったときに、自然と身体が耳が覚えているようにこの曲を弾き続けてくれていたのだろうか。
 尋ねたらきっと「そんなつもりじゃないよ」と暁斗君は優しく笑うだろう。でも『歌え』と『覚えろ』と押しつけるでもなく、奏で続けてくれたからこそ、今こうやって私は自然と歌うことができている。
時岡和花
時岡和花
ありがと
杉早暁斗
杉早暁斗
ん? 何が?
時岡和花
時岡和花
なんでもない
 えへへ、と笑う私に暁斗君は「変な和花だな」と笑う。この距離感が、今の私には心地よかった。
時岡和花
時岡和花
暁斗君は、さ
 旧校舎の音楽室を夕日が照らす。薄暗い室内がオレンジ色に染められていくのを見つめながら、私はポツリと呟いた。
時岡和花
時岡和花
虐められたことって、ある?
杉早暁斗
杉早暁斗
無視とか靴を隠されたりとかその程度なら
 その程度、と暁斗君は言うけれど、きっとその当時は辛く苦しかったに違いない。
時岡和花
時岡和花
そのときさ、誰か庇ってくれたり助けてくれた人っていた?
杉早暁斗
杉早暁斗
……うん、幼稚園の頃からの幼なじみが一緒になって探してくれたり怒ってくれたりしたかな。彼がいたからあの頃の僕は学校に行くことをやめないでいられたと思うよ
 脈絡もなく話す私の言葉に、暁斗君は丁寧に答えてくれる。そっかと答えながら、私はかつての親友のことを思い出す。
時岡和花
時岡和花
私にもね、幼なじみがいたの。優しくて強くて、正義感の塊みたいな子でね
杉早暁斗
杉早暁斗
いい子だったんだね
時岡和花
時岡和花
うん……。だからかな。私がクラスでイジリの対象になったとき、彼女がすっごく怒ってくれたの。それこそ当事者である私よりも。でも、それが気に食わない子達がいたんだと思う。……矛先が、私からその子に向いちゃったの
 矛先が向いた、なんて可愛いものじゃない。あれは完全に虐めだった。私に対して揶揄したりイジったりするのとは違い、私物を隠したり教科書を捨てたりと少しずつそれはエスカレートしていった。
時岡和花
時岡和花
私、気づいてた。これぐらい大丈夫だよって笑うあの子が影で泣いていたことに。でも何もできなかった。私のことを庇ってくれたのに、守ってくれたのに、私は何もできなかった
 結局、暫くしてあの子は転校してしまった。家も引っ越した。それを私は、全部終わってから知らされた。それも担任の口から。
時岡和花
時岡和花
大切な幼なじみだったのに。親友だったのに。守ってあげることも助けてあげることもできなかった。ただそばにいることしかできなかった。だからかな、何も言わずに私の前からいなくなっちゃったのは
杉早暁斗
杉早暁斗
そんなこと……
時岡和花
時岡和花
ううん、いいの。そうされても仕方のないことをしたってわかってる。そのあとかな、私の声が出なくなったのは。でもね、あの子が転校してからでよかったって思ってるの
杉早暁斗
杉早暁斗
どうして?
 暁斗君の問に、私は泣きそうになるのを必死で堪えて「だって」と、笑顔を浮かべた。
時岡和花
時岡和花
優しいあの子のことだもん。私の声が出なくなったってわかったら、絶対に自分を責めるから。だからあの子がいなくなってからでよかったの
杉早暁斗
杉早暁斗
和花……
時岡和花
時岡和花
今ね、クラスで無視されてるの。喋れないから仕方ないんだけど……。でも、今になってやっとあの頃あの子がどれだけ苦しかったのか辛かったのか、あの子の感じたよりもずっとずっと僅かだとは思うけれどわかった気がした
 きっともっと苦しかったと思う。辛かったと思う。誰かから無視をされるたびに、あの頃のあの子に謝りたいと思う。そばにいたのに辛い想いをさせてごめんって。
杉早暁斗
杉早暁斗
……その子は、和花がいてくれて幸せだったと思うよ
時岡和花
時岡和花
え?
 暁斗君の言った言葉の意味が、一瞬私には理解できなかった。あの子が、幸せだった?
時岡和花
時岡和花
そんなわけ……っ!
杉早暁斗
杉早暁斗
だって和花がそばにいてくれたんでしょ? 和花は自分には何もできなかったっていうけれど、でもそばにいてもらえるだけで心強かったと思うし嬉しかったと思うよ
 そうなの、だろうか。そんな都合のいいことがあるのだろうか。
時岡和花
時岡和花
そうだと、いいな
杉早暁斗
杉早暁斗
きっとそうだよ。和花の存在が、きっとその子の支えになっていたと、僕はそう思うよ
 本当のところはもうわからないし聞くこともできない。それでも何もできなかった私だけど、あの頃のあの子の支えに、僅かでもなれていたらいいな。
 暁斗君の言葉で、ほんの少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。

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