俯いて黙ったまま立ち尽くしていると頭上から誉田さんの「やっぱりね」と笑う声が聞こえた。
休憩中ということもあり、音楽教師のいなくなった音楽室で、誉田さんは楽しそうに私を責める。
未冬ちゃんの声に、私は顔を上げる。一つ前の段にいたはずの未冬ちゃんは、いつの間にか教室の一番前、ピアノのそばにいた。
先程まで音楽教師が弾いていたピアノの鍵盤を端から端までなぞるように指し示す。
みんなの視線が自分に集まっていることに気づいたのだろう。もしかしたら誰かに反論されるなんて思ってもみなかったのかもしれない。誉田さんは伸ばした爪を噛みながら悔しそうな表情を浮かべる。
私は未冬ちゃんの助け船に、心底ホッとした。これで――。
その声は、教室の隅から聞こえた。そこにいたのは殆ど話したこともないクラスメイトの男子だった。
近くにいた男子が、突然口を開いた彼を不思議そうに見つめ名前を呼んだ。
誉田さんがキツイ口調で泰田と呼ばれた男子に言葉を投げつける。泰田君は少し怯えたような表情を浮かべ、口ごもりながらも言葉を発した。
音楽室の中がシン、と静まり返る。仕方がない。仕方がないのだ。これは私がコミュニケーションから人から逃げてきたその結果だ。
今になって思う。私は声が出ないことに甘えて逃げていたのだと。誰かと向き合うことから、誰かと真正面からぶつかることから。
本当に話したいと思えば、声が出なくても筆談とか身振り手振りとかいくらでも想いを伝える手段はあった。それこそ暁斗君とは最初から筆談で話をしていた。ただ私が逃げていただけだ。
誉田さんはニコッと笑った。そのいいことがきっと私にとってのいいことじゃないのは聞かなくてもわかった。
その言葉が、私にはまるで死刑宣告のように聞こえた。
そのあとの合唱は散々だった。
誉田さんはそう言うと、黒鍵を自分のポケットに入れた。黒鍵がなくても大丈夫、そう思おうとするけれど、歌っている間も先程まで行われていた私への追求が何度も何度もフラッシュバックして、結局一度目ほど満足には歌うことはできなかった。
歌えなくなると、周りの反応も冷たいものとなる。あからさまにため息が音楽室のあちらこちらから聞こえ始める。コソコソと何かを言う声も聞こえる。その態度にこのままじゃダメだと思うけれど、思えば思うほど上手く歌えなくなっていった。
――私が上手く歌えなくなればなるほど、隣で歌う誉田さんが楽しそうに歌うようになったのは、きっと気のせいじゃない。
授業が終わると、誉田さんは嬉々として私を引きずるようにして旧校舎へと向かった。ちなみに男子は「くだらない」とみんな教室に戻ってしまった。なので旧校舎へ向かうのは私と未冬ちゃん、誉田さんと仲のいい何人か、それから上原さんだけだった。
いつもは一人で行く旧校舎。それをこんなふうに歩く日が来るなんて思ってもみなかった。胸が苦しくなる。こんなとき黒鍵を握りしめられたら、と思うのだけれど今も誉田さんに取り上げられたままだ。
そんな私の手を握りしめたのは――隣を歩く未冬ちゃんの、私より少し小さな手のひらだった。
未冬ちゃんの言葉に、そして手のひらから伝わるぬくもりに、なぜかほんの少しだけ気持ちが落ち着くのを感じた。
誉田さんの視線の先には通い慣れた旧校舎の音楽室があった。ニヤリと笑った誉田さんは私から取り上げた鍵を使い、それから扉に手をかけた。開いた扉の先には、暁斗君の姿が見えた。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。