放課後、私は誰もいない古びた廊下を一人歩いていた。歩みを進めるたびに床が嫌な音を立てて鳴る。さすがに床が抜け落ちるということはないだろうけれど少し不安になるのは仕方のないことだろう。何と言ってもこの校舎が使われていたのは今から三十年以上昔なのだから。
重い気持ちを引きずりながら、担任から渡された錆びた鍵に視線を落とす。
職員室に呼び出され、問答無用でこの鍵を渡された。嫌だと断る権利も、その言葉も私は持ち合わせていなかった。
漸くたどり着いた教室の前で立ち止まると『音楽室』と書かれたプレートを見上げる。埃を被り、薄らと蜘蛛の巣ができているのが見える。担任に言われたのでなければこんなところに入りたくはない。いや、言われたとしても入りたいわけはない。
けれど教室を使った形跡がなければ、あとでチェックされたときに何かを言われ面倒くさいことになるかもしれない。なんなら、サボらないように練習のときは見張りにつく、なんて言われることだって考えられる。そんなの、最悪だ。
一度でも練習しておけば、やったという証明になる。とりあえず中に入った痕跡だけでも残しておこう。
錆びた鍵を鍵穴に刺し込もうと握り直したそのとき、何かが聞こえた気がした。
それは目の前の教室から聞こえて来た。
もの悲しくもあり、けれどなぜかずっと聞いていたくなるようなその音色に惹き付けられるようにして私は鍵を回した。
錠の開く音が聞こえ、そっと扉を横にスライドさせる。立て付けが悪いのか、少し引っかかりながらも開いた扉の向こうに見えたのは、黒板の前、教室の奥に置かれたピアノの前に座る少年の姿だった。どうやら聞こえて来たメロディは目の前の少年が奏でていたようで、私に気づいたと同時に音が止まった。
椅子から立ち上がると、彼は一歩また一歩と私に向かって歩いてくる。その姿にどこか違和感を覚えた。
その違和感の正体に気づいた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
整った目鼻立ち、うっとりとするようなメロディを奏でていた彼の身体は、薄らと向こう側が透けて見えた。
夏休みが数日前に終わり、茹だるような暑さの中、エアコンの効いてるのかわからない教室で黙ったままノートを見つめていた。
午後一の数学の授業ということもあり、あちらこちらで頭が揺れていることに教師も気づいていたのだろう。
黒板に書く手を止めて振り返り、教室を見回すと席順に一人ずつ当て始めた。
私の隣の列が終わり、そして――。
言われるがままに立ち上がる。黒板に書かれた問の答えはわかっている。答えればいいだけだと、理解もしている。けれど。
口を何度かパクパクとしてみるけれど、喉の奥がキュッと詰まってしまったみたいになる。喉まで出かかった言葉は音になることなく、気管を空気が通る音だけしか聞こえてこない。
黙ったまま立ち尽くす私に苛立ちを隠すことなく、教師は吐き捨てるように言った。
俯いて机の下で手をギュッと握りしめる。どうしたらいいかわからず、この時間が過ぎ去ることだけを祈っていた。
私の後ろで、誉田と呼ばれた女子が立ち上がったのがわかった。教師からの問に答えると、音を立てて椅子に座る。その拍子に私の椅子が蹴られたのがわかった。
謝罪の言葉どころか、後ろからはあからさまな舌打ちが聞こえてくる。その音に、私はさらに深く俯いた。
答えたくないわけじゃない。答えがわからないわけでもない。ただ、この場所ではどう絞りだそうとしても、声が出ないのだ。
どんなに頑張っても……。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!