旧校舎の音楽室で声が出てから二週間が経った。最初はたどたどしかったけれど、今では随分とスムーズに話せるようになった気がする。……暁斗君限定ではあるけれど。
数回、課題曲を通して歌った私は、休憩がてら暁斗君が奏でるメロディを聴きながら鞄から取り出したペットボトルに口を付ける。喋ると喉が渇く。歌うと喉が渇く。そんな当たり前のことも、少し前までの私は忘れていたような気がする。
暁斗君の言葉を繰り返す私に頷きながら、彼は軽やかに鍵盤を叩く。この曲は以前も弾いていたので覚えている。『子犬のワルツ』だ。
もしかしたら、と思い、音楽の授業の時に歌おうと試してみたこともある。けれど相変わらず私の喉からは空気の抜けるような音が聞こえるだけだった。教室でも試してみようかと思ったけれど、話をする相手もいなくて、もし話すことができたとしても突然独り言を言い出した気持ち悪い奴、と思われそうでやめた。けれど、試していたとしても音楽室と結果は同じだっただろう。
私よりも私のことを考えてくれる暁斗君に、胸の奥が熱くなる。どうしてこんなに親身になってくれるのだろう。その疑問は聞きたいようで、でも聞きたくなくて。首をもたげるたびに、胸の奥に押し戻し続けている。
腕を組み、何かを考え込むように目を閉じる。なんどか「うーん」と言い続けたあと、暁斗君はパッと目を開けた。
手招きをされ暁斗君の元へと向かう。暁斗君はピアノの近くにある一枚の扉の前に立っていた。黒板の隣に目立たないようにあるその扉の上には、埃を被っているが『音楽準備室』と書かれたプレートがついているのがわかった。
言われるがままにドアノブを回す。どうやら鍵はかかっていなかったようで、扉はすんなりと開いた。中は部屋と言うには少し狭い、物置のような場所となっていた。
とはいえ音楽準備室というだけあって、色褪せた楽譜や古びた譜面台が所狭しと詰め込まれ、ケースに埃が被った楽器がいくつも戸棚に並んでいた。
暁斗君は音楽準備室のドアのそばから、部屋の隅に置かれた三段の引き出しがついた机を指さした。言われた通り二段目の引き出しを開けると、そこには針が取れてしまったメトロノームや折れてしまったドラムか何かのスティック、錆び付いた指揮棒など一見するとゴミかと思うようなものがたくさん入っていた。
暁斗君が指さしたものは――。
それを手に取ると、不思議な気持ちになる。暁斗君が生きていた頃、触れていたものに今私が触れているなんて。
黒鍵を手にしたまま音楽室に戻った私に、暁斗君は事もなげに言った。
そういうもの、なのだろうか。不安に思いながらも、手の中の黒鍵に視線を落とす。暁斗君は私にそれを握らせるように手を重ねる。
念押しするように言われて私はおずおずと頷くと、黒鍵を握りしめた。手のひらから暁斗君のぬくもりが伝わってくるような、そんな気がした。
翌朝、いつも通り重い気持ちを抱えながら教室へと向かう。学校に入ったときから感じていた息苦しさが、教室に入った瞬間酷くなる。まるで喉元を締め付けられているかのような苦しさに、私はスカート……ではなく、ポケットに入れた黒鍵を握りしめた。
少しずつではあるけれど、息苦しさが落ち着いてくるのを感じる。まるで黒鍵に触れている手のひらだけ旧校舎の音楽室と、暁斗君と繋がってるかのようだった。
深呼吸を一つ二つと繰り返し、自分の席へと向かう。
突然の叫び声とともに、私のすぐそばで誰かが持っていた荷物ごと勢いよく転けた。転けたというか、野球とかで言うところのヘッドスライディング状態だ。一体何をどうしたらこうなったのかさっぱりわからない。
足下で未だに転がったままのその子に私は――。
私は自分が思わずかけた言葉に、目の前で顔を上げてはにかむクラスメイトは声をかけたのが私だと言うことに驚き、お互い顔を見合わせた。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。
登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。