心臓の音がうるさくて仕方がない。何度も深呼吸を繰り返すけれど、どうしても呼吸が浅くなっているのがわかる。
何度も何度も暁斗君と一緒に練習した。暁斗君は大丈夫だから自信を持ってと送り出してくれた。大丈夫、きっと上手くいく……。
楽しそうに話しかけてくる誉田さんに苦笑いを浮かべることしかできない。いつもは席に座るのだけれど、今日は挨拶をしたらそのまま合唱コンクールの練習に入るから、と歌う順番に並んでいる。そのせいで私の隣には誉田さんが並んでいた。
意地悪く笑う誉田さん。『優勝できなくなっちゃう』という言葉に、何人かがこちらを向いたのがわかった。私は俯いてぎゅっと目を閉じるとポケットの中の黒鍵を握りしめた。
黒鍵から伝わってくるぬくもりが、旧校舎の音楽室を、重なった暁斗君の手のひらから感じたあたたかさを思い出させてくれる。
ほんの少しだけ、心臓の音が落ち着いた、そんな気がした。
顔を上げた私を、誉田さんはキッと睨みつけた。
何か言いかけた誉田さんの言葉を遮ったのは、トイレから戻ってきた未冬ちゃんの声だった。音楽室中に響き渡る未冬ちゃんの声に、誉田さんはどこかバツの悪そうな、苛立ったような表情を浮かべて私から顔を背けた。
慌てて私の元までかけて来た未冬ちゃんは、私の手を取ると心配そうな表情を浮かべてくれる。私より10cmほど小さい未冬ちゃんは私の顔を見上げるようにして覗き込んだ。
未冬ちゃんの前向きな言葉は、鬱蒼としていた私の心の中を太陽のような明るさで照らしてくれた。
まだ何か言いたそうな誉田さんから視線を逸らす。ちょうど音楽教師が入ってきて、黒板の前に立った。
挨拶をしてさっそく練習に入る。今日までは全員で歌っていたソロパート。今日からは、私一人だ。
少しずつその箇所が近づいてくるにつれ、心臓の音がうるさくなる。大丈夫だと思っても、怖いものは怖い。
静まり返った音楽室。ポケットに入れた黒鍵をしっかり握りしめると、私はなんとかソロパートを歌いきった。
歌が終わり、みんながほうっと一息吐くと同時に、一つ前の段にいた未冬ちゃんが振り返って、私の手を握りしめた。
口々に私のソロパートへの感想を言いながら盛り上がるクラスメイトの姿に、ホッとして胸をなで下ろす。
右手で握りしめ続けた黒鍵に、心の中でお礼を言う。そんな私に、隣に並んでいた誉田さんが意地悪く笑った。
誉田さんはそう言うと同時に、私の手をポケットから引き抜いた。
カラン――という音を立てながら、黒鍵が音楽室の床に転がり落ちた。
拾い上げられ、みんなに見えるように持ち上げる。必死に取り返そうとする私を見て、何が楽しいのか誉田さんは愉快そうに笑う。
暁斗君がくれたとはいえ、元はといえば学校のピアノの黒鍵だ。昔のものだとか、元々このパーツだけが外れた状態で残されていたんだ、とか伝えようかと思ったのだけれど、どれも言い訳のように思えて私は口を噤んだ。
黙ったままの私に誉田さんは勝ち誇ったように笑った。その表情は、今まで見たどんな人の顔より意地悪く見えた。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!
転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。