第13話

13話
2,232
2023/03/18 04:00
 心臓の音がうるさくて仕方がない。何度も深呼吸を繰り返すけれど、どうしても呼吸が浅くなっているのがわかる。
時岡和花
時岡和花
(大丈夫……きっと大丈夫……)
 何度も何度も暁斗君と一緒に練習した。暁斗君は大丈夫だから自信を持ってと送り出してくれた。大丈夫、きっと上手くいく……。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
あれー? 時岡さん、どうしたのー? 顔色悪いよー? 具合でも悪いの?
 楽しそうに話しかけてくる誉田さんに苦笑いを浮かべることしかできない。いつもは席に座るのだけれど、今日は挨拶をしたらそのまま合唱コンクールの練習に入るから、と歌う順番に並んでいる。そのせいで私の隣には誉田さんが並んでいた。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
え、やっだー。また喋らなくなっちゃったのー? それでホントにソロパートなんて歌えるの? みんなに迷惑かけるのだけはやめてよねー。あなたが歌わなくなったらうちのクラスの優勝できなくなっちゃうんだから
 意地悪く笑う誉田さん。『優勝できなくなっちゃう』という言葉に、何人かがこちらを向いたのがわかった。私は俯いてぎゅっと目を閉じるとポケットの中の黒鍵を握りしめた。
時岡和花
時岡和花
(大丈夫……大丈夫……)
 黒鍵から伝わってくるぬくもりが、旧校舎の音楽室を、重なった暁斗君の手のひらから感じたあたたかさを思い出させてくれる。
 ほんの少しだけ、心臓の音が落ち着いた、そんな気がした。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
な、なによ
 顔を上げた私を、誉田さんはキッと睨みつけた。
時岡和花
時岡和花
できる、だけ、頑張ります
誉田蝶羽
誉田蝶羽
……っ。当たり前でしょ! だいたい――
丹波未冬
丹波未冬
あー! あげはちゃん、また和花ちゃんのこといじめてる! ダメだよー!
 何か言いかけた誉田さんの言葉を遮ったのは、トイレから戻ってきた未冬ちゃんの声だった。音楽室中に響き渡る未冬ちゃんの声に、誉田さんはどこかバツの悪そうな、苛立ったような表情を浮かべて私から顔を背けた。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
虐めてなんかないわよ、人聞きの悪い。ただ顔色が悪かったから、大丈夫? って。そんなんで歌えるの? って聞いてあげてただけよ
丹波未冬
丹波未冬
あ、そうなんだ! ごめんね、勘違いしちゃった。え、というか和花ちゃん体調悪いの? 大丈夫? 保健室行く?
 慌てて私の元までかけて来た未冬ちゃんは、私の手を取ると心配そうな表情を浮かべてくれる。私より10cmほど小さい未冬ちゃんは私の顔を見上げるようにして覗き込んだ。
時岡和花
時岡和花
う、ううん。大丈夫……。ちょっと緊張しちゃって……
丹波未冬
丹波未冬
そっか、そうだよねー! でもきっと和花ちゃんなら大丈夫だよ! 私、応援してる!
時岡和花
時岡和花
ありがとう……
 未冬ちゃんの前向きな言葉は、鬱蒼としていた私の心の中を太陽のような明るさで照らしてくれた。
時岡和花
時岡和花
(とにかく、やれるだけ頑張ろう)
 まだ何か言いたそうな誉田さんから視線を逸らす。ちょうど音楽教師が入ってきて、黒板の前に立った。
 挨拶をしてさっそく練習に入る。今日までは全員で歌っていたソロパート。今日からは、私一人だ。
 少しずつその箇所が近づいてくるにつれ、心臓の音がうるさくなる。大丈夫だと思っても、怖いものは怖い。
時岡和花
時岡和花
(暁斗君……)
 静まり返った音楽室。ポケットに入れた黒鍵をしっかり握りしめると、私はなんとかソロパートを歌いきった。
丹波未冬
丹波未冬
――和花ちゃん、凄く綺麗な歌声だったよ!
 歌が終わり、みんながほうっと一息吐くと同時に、一つ前の段にいた未冬ちゃんが振り返って、私の手を握りしめた。
時岡和花
時岡和花
え、そ、そんなこと……
上原にこ
や、めっちゃ良かったよ
クラスメイト
ホントホント。これなら優勝できんじゃね?
クラスメイト
あとはもうちょっと声量がほしいところだな!
 口々に私のソロパートへの感想を言いながら盛り上がるクラスメイトの姿に、ホッとして胸をなで下ろす。
時岡和花
時岡和花
(暁斗君のおかげだ……ありがと)
 右手で握りしめ続けた黒鍵に、心の中でお礼を言う。そんな私に、隣に並んでいた誉田さんが意地悪く笑った。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
そうだね、隣で聞いてても聞きにくいぐらいの声の小ささだったけど、上手かったんじゃない? でも歌ってる間、ポケットに手を入れてるのはよくないと思うよ。ほら、手を出しなさいよ
時岡和花
時岡和花
あっ
 誉田さんはそう言うと同時に、私の手をポケットから引き抜いた。
 カラン――という音を立てながら、黒鍵が音楽室の床に転がり落ちた。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
あれ? これ何? ピアノの……黒いところ?
時岡和花
時岡和花
返して!
 拾い上げられ、みんなに見えるように持ち上げる。必死に取り返そうとする私を見て、何が楽しいのか誉田さんは愉快そうに笑う。
誉田蝶羽
誉田蝶羽
これ時岡さんの? え、何ピアノ壊したの? ってか、これってどこのピアノ? まさか学校のピアノを壊して盗ったんじゃないでしょうね
時岡和花
時岡和花
そ、れは……
 暁斗君がくれたとはいえ、元はといえば学校のピアノの黒鍵だ。昔のものだとか、元々このパーツだけが外れた状態で残されていたんだ、とか伝えようかと思ったのだけれど、どれも言い訳のように思えて私は口を噤んだ。
 黙ったままの私に誉田さんは勝ち誇ったように笑った。その表情は、今まで見たどんな人の顔より意地悪く見えた。

プリ小説オーディオドラマ