「さあ、歌え」と無理強いするわけでもなく、暁斗君の奏でるメロディは寄り添うように鳴り響く。一通り弾き終わると、暁斗君は苦笑いを浮かべた。
勢いよく黒板に書いた私の文字に、暁斗君は少し驚いたような表情を浮かべ、そしてはにかむように笑った。
そして再び、最初から弾き始める。どうしたらいいかわからず立ち尽くす私に視線を向けると、優しく微笑んだ。
その言葉通り、暁斗君は私に何かを求めることなく自由に弾き続ける。時折、転調させて同じ曲なのに楽しいメロディにしたり暗いメロディに変えたりする。ポップな曲調に変わったときは、思わず――。
暁斗君の言葉に、私は驚きを隠せなかった。おずおずと自分の頬に触れてみると、確かに口角が上がり笑っていることに気づいた。
親友が虐めに遭い転校してしまってから、学校で声が出なくなったのと同じように笑うことなんて一度もなかった。能面みたいに貼り付けた表情を浮かべているだけだった。
自分の変化に自分自身でも戸惑ってしまう。目の前にいる人は、今日初めて会った、それも生きているわけじゃない、幽霊なのに。
何度目かの演奏のあと、私は黒板に書いた。暁斗君は小首を傾げてこちらを見た。
暁斗君は課題曲とは違う、少しもの悲しいメロディを奏で始めた。聞き覚えのあるような、けれどどうしてもタイトルが出てこないその曲は、私の胸の奥の深い深いところに染み込むようにして入ってくる。
暁斗君の言葉の意味が私には理解できなかった。揉めて悩んで苦しむことが生きている人間の特権? そんな特権に何の必要があるのか教えてほしい。悩むことも苦しむこともない方がいいに決まっている。辛い思いをしてまで頑張ることに何の意味があるのだろう。
黙ったままの私に、暁斗君は心配そうに尋ねる。私は黙ったまま首を振った。
質問を質問で返され、私は言葉に詰まる。寂しいかどうかなんて今まで考えてもみなかった。
本当は、親友がいなくなって、クラスでもひとりぼっちで気にしていないフリをするけれど、ずっと寂しかった。でも、親友を助けることができなかった私が寂しいなんて思っちゃいけないんだと、あの子は知り合いが誰もいない場所に行ったんだからと、そう自分に言い聞かせていた。
暁斗君のような考え方は、私の中にはない。……ううん、なかった。
このままずっと喋れなくてもいいと思っているわけじゃない。本当はいつかどこかで自分自身と向き合わなければいけないと、そう思っていた。ただきっかけがなかっただけで。きっかけがないことを言い訳に、逃げていただけで。
躊躇いながらも黒板に書いた文字。暁斗君はそれを見て頷きながら笑った。
その言葉に胸の奥があたたかくなるのを感じながら、私は音楽室をあとにした。
あんなにも怖くて不気味だった旧校舎の中なのに、差し込む夕日のせいだろうか。少しだけ明るくあたたかく感じた。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。
登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。