ことん、となにかが床に落ちる音がする。
みれば、カフェカウンターのすみに座っていたお客さんのペンが、床に落ちていた。
拾って渡すけれど、返事がない。
週末にときたまやってくる若い男性客だ。
このお客さん、いつもショコラを買ったあと、カフェのほうでコーヒーをのみながら書類をながめたりするのだけど、とにかく落とし物が多い。
すぐにまた、書類のクリップが。
つぎはコーヒーのスプーンが床に落ちる。
こそっと花江さんが耳打ちしてくる。
軽口を言って笑いあううちに、
こんどはコーヒーがこぼれた。
ふきんを持っていこうとすると、花江さんがとめる。
でも。
物を落としたなら拾う。コーヒーをこぼしたならふく。
どんなお客さんでも笑顔で接客、だ。
ここは最高のショコラのお店だから、最高の気分で帰ってもらいたい。
宇瑠ができるのは、笑顔の接客だけだ。
とはいえ、結局このお客さんは怒った花江さんにぴったりとくっついて座られ、いづらくなったのか、すぐに退店していった。
***。
夕方になってお店をあがり、自宅マンションに帰りながらスマホを手にとる。
握手会のあとのSNSへのつぶやきに、たくさん『いいね』がついていた。
いくつか返信もある。
〈握手会サイコーでしたね!〉
〈いいなー都会民。わたしも行きたかったし!!〉
〈ウチも会場にいたよ~〉
みんなSNSで知りあったドルチェのファンたちだ。
ドルチェは四月にデビューしたばかりのアイドルだから、まだまだ知名度も低くて学校にはファン友だちというものがいない。
さみしかったけれど、おねだりしてようやく買ってもらえたスマホのおかげで、こうして貴重なファンとつながることができていた。
SNSってすごい! とひたすら感動するばかりだ。
ドルチェ仲間のひとり、みるくはアイコンの写真が読者モデルみたいにかわいい女の子だ。
みるくはかわいいだけじゃなく、おんなじ風真推しで、宇瑠のつぶやきには必ず『いいね』をくれるし、返信もたくさんくれる。
ただ、ちょっと変なところがある子で、メッセージよりも自撮り画像をあげてくることのほうが、ひたすらに多かった。
しかもその画像も、つぶやきに対してなんの脈絡もないことが多いうえ、宇瑠に対しても「自撮りちょうだい」とねだってくるので、ほかのアカウントさんたちからもすこし警戒するように言われていたりもする。
かわりにお店のずらりとならんだボンボン・ショコラの画像を送ったところで、マンションについた。
最上階の一室が宇瑠の自宅だ。
マンション最上階というと、いかにも上流家庭に聞こえるけれど、そういうわけじゃない。
半郊外にある、一階にダンススタジオが入ったふつうの六階建てマンションだ。
特殊なところがあると言えば、楽器演奏可な防音室があることくらい。
宇瑠の家庭では、父親がその防音室で趣味のギターを弾いたりしている。
スマホをいじくりながらエレベーターを降りて、外廊下へとふみだした足が止まった。
頭がまっ白になる。
宇瑠の自宅、その奥の角部屋のまえに、男子学生たちの姿が見えた。
ほとんどがバラバラな制服を着て、中へと入っていく。
このマンションを管理している不動産屋は、宇瑠の父親が働く会社だ。
たしかその父が何日かまえに、
なんて言ってはいたけれど。
立ちつくす宇瑠に気がついたように、一番最後にいた一人がふり返る。
彼は儚くてきれいと評判の顔を、おもいっきりしかめてみせた。
彼の名前は塔上沙良。
となりの角部屋に入っていったのは、ドルチェのメンバーたちだった。
編集部コメント
引きこもりのおじさんと真面目な女子高生という組み合わせがユニーク。コンテストテーマである「タイムカプセル」が、世代の違う二人をつなぎ、物語を進めるアイテムとして存在感を発揮しています。<br />登場人物が自分の過去と向き合い、未来に向かって成長していく過程が丁寧な構成で描かれていました。