第8話

押絵と旅する男 8
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2022/04/19 23:00
老人
あんまり心配だものだから、私はある日、兄が一体どこへ出掛るのかと、ソッとあとをつけました。

そうする様に、母親が私に頼むもんですからね。

兄はその日も、丁度今日の様などんよりとした、いやな日でござんしたが、おひるすぎから、その頃兄の工風くふうで仕立てさせた、当時としては飛び切りハイカラな、黒天鵞絨の洋服を着ましてね、この遠眼鏡を肩から下げ、ヒョロヒョロと、日本橋通りの、馬車鉄道の方へ歩いて行くのです。

私は兄に気どられぬ様に、ついて行った訳ですよ。

よござんすか。しますとね、兄は上野うえの行きの馬車鉄道を待ち合わせて、ひょいとそれに乗り込んでしまったのです。

当今の電車と違って、次の車に乗ってあとをつけるという訳には行きません。

何しろ車台がすくのござんすからね。

私は仕方がないので母親にもらったお小遣いをふんぱつして、人力車に乗りました。

人力車だって、少し威勢のいい挽子ひきこなれば馬車鉄道を見失わない様に、あとをつけるなんぞ、訳なかったものでございますよ。
老人
兄が馬車鉄道を降りると、私も人力車を降りて、又テクテクと跡をつける。

そうして、行きついた所が、なんと浅草の観音様じゃございませんか。

兄は仲店なかみせから、お堂の前を素通りして、お堂裏の見世物小屋の間を、人波をかき分ける様にしてさっき申上げた十二階の前まで来ますと、石の門を這入はいって、お金を払って「凌雲閣」という額の上った入口から、塔の中へ姿を消したじゃあございませんか。

まさか兄がこんな所へ、毎日毎日かよっていようとは、夢にも存じませんので、私はあきれてしまいましたよ。

子供心にね、私はその時まだ二十はたちにもなってませんでしたので、兄はこの十二階の化物に魅入みいられたんじゃないかなんて、変なことを考えたものですよ。
老人
私は十二階へは、父親につれられて、一度昇った切りで、その後行ったことがありませんので、何だか気味が悪い様に思いましたが、兄が昇って行くものですから、仕方がないので、私も、一階位おくれて、あの薄暗い石の段々を昇って行きました。

窓も大きくございませんし、煉瓦の壁が厚うござんすので、穴蔵の様に冷々と致しましてね。

それに日清にっしん戦争の当時ですから、その頃は珍らしかった、戦争の油絵が、一方の壁にずっと懸け並べてあります。

まるで狼みたいな、おっそろしい顔をして、吠えながら、突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられ、ふき出す血のりを両手で押さえて、顔や唇を紫色にしてもがいている支那兵や、ちょんぎられた辮髪べんぱつの頭が、風船玉の様に空高く飛上っている所や、何とも云えない毒々しい、血みどろの油絵が、窓からの薄暗い光線で、テラテラと光っているのでございますよ。

その間を、陰気な石の段々が、蝸牛かたつむりからみたいに、上へ上へと際限もなく続いて居ります。

本当に変てこれんな気持ちでしたよ。
老人
頂上は八角形の欄干らんかん丈けで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、にわかにパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。

雲が手の届きそうな低い所にあって、見渡すと、東京中の屋根がみたいに、ゴチャゴチャしていて、品川しながわ御台場おだいばが、盆石ぼんせきの様に見えて居ります。

目まいがしそうなのを我慢して、下を覗きますと、観音様かんのんさまの御堂だってずっと低い所にありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃの様で、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。