私の表情に驚きの色を見て取ったからか、老人は、いとたのもしげな口調で、殆ど叫ぶ様に、
と云いながら、肩から下げていた、黒革のケースを、叮嚀に鍵で開いて、その中から、いとも古風な双眼鏡を取り出してそれを私の方へ差出すのであった。
誠に異様な頼みではあったけれど、私は限りなき好奇心のとりことなって、老人の云うがままに、席を立って額から五六歩遠ざかった。老人は私の見易い様に、両手で額を持って、電燈にかざしてくれた。今から思うと、実に変てこな、気違いめいた光景であったに相違ないのである。
遠眼鏡と云うのは、恐らく二三十年も以前の舶来品であろうか、私達が子供の時分、よく眼鏡屋の看板で見かけた様な、異様な形のプリズム双眼鏡であったが、それが手摺れの為に、黒い覆皮がはげて、所々真鍮の生地が現われているという、持主の洋服と同様に、如何にも古風な、物懐かしい品物であった。
私は珍らしさに、暫くその双眼鏡をひねくり廻していたが、やがて、それを覗く為に、両手で眼の前に持って行った時である。突然、実に突然、老人が悲鳴に近い叫声を立てたので、私は、危く眼鏡を取落す所であった。
老人は、真青になって、目をまんまるに見開いて、しきりと手を振っていた。双眼鏡を逆に覗くことが、何ぜそれ程大変なのか、私は老人の異様な挙動を理解することが出来なかった。
私は双眼鏡を覗くことに気を取られていたので、この老人の不審な表情を、さして気にもとめず、眼鏡を正しい方向に持ち直すと、急いでそれを目に当てて押絵の人物を覗いたのである。
焦点が合って行くに従って、二つの円形の視野が、徐々に一つに重なり、ボンヤリとした虹の様なものが、段々ハッキリして来ると、びっくりする程大きな娘の胸から上が、それが全世界ででもある様に、私の眼界一杯に拡がった。
あんな風な物の現われ方を、私はあとにも先にも見たことがないので、読む人に分らせるのが難儀なのだが、それに近い感じを思い出して見ると、例えば、舟の上から、海にもぐった蜑の、ある瞬間の姿に似ていたとでも形容すべきであろうか。蜑の裸身が、底の方にある時は、青い水の層の複雑な動揺の為に、その身体が、まるで海草の様に、不自然にクネクネと曲り、輪廓もぼやけて、白っぽいお化けみたいに見えているが、それが、つうッと浮上って来るに従って、水の層の青さが段々薄くなり、形がハッキリして来て、ポッカリと水上に首を出すと、その瞬間、ハッと目が覚めた様に、水中の白いお化が、忽ち人間の正体を現わすのである。丁度それと同じ感じで、押絵の娘は、双眼鏡の中で、私の前に姿を現わし、実物大の、一人の生きた娘として、蠢き始めたのである。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!