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第12話

押絵と旅する男 12
17
2022/05/17 23:00
老人
ところが、長い間探し疲れて、元の覗き屋の前へ戻って参った時でした。

私はハタとある事に気がついたのです。

と申すのは、兄は押絵の娘に恋こがれた余り、魔性の遠眼鏡の力を借りて、自分の身体を押絵の娘と同じ位の大きさに縮めて、ソッと押絵の世界へ忍び込んだのではあるまいかということでした。

そこで、私はまだ店をかたづけないでいた覗き屋に頼みまして、吉祥寺の場を見せて貰いましたが、なんとあなた、あんじょう、兄は押絵になって、カンテラの光りの中で、吉三の代りに、嬉し相な顔をして、お七を抱きしめていたではありませんか。
老人
でもね、私は悲しいとは思いませんで、そうして本望ほんもうを達した、兄の仕合せが、涙の出る程嬉しかったものですよ。

私はその絵をどんなに高くてもよいから、必ず私に譲ってくれと、覗き屋に固い約束をして、(妙なことに、小姓の吉三の代りに洋服姿の兄が坐っているのを、覗き屋は少しも気がつかない様子でした)家へ飛んで帰って、一伍一什いちぶしじゅうを母に告げました所、父も母も、何を云うのだ。お前は気でも違ったのじゃないかと申して、何と云っても取上げてくれません。

おかしいじゃありませんか。ハハハハハハ
老人は、そこで、さもさも滑稽こっけいだと云わぬばかりに笑い出した。そして、変なことには、私もまた、老人に同感して、一緒になって、ゲラゲラと笑ったのである。
老人
あの人たちは、人間は押絵なんぞになるものじゃないと思い込んでいたのですよ。

でも押絵になった証拠には、そののち兄の姿が、ふっつりと、この世から見えなくなってしまったじゃありませんか。

それをも、あの人たちは、家出したのだなんぞと、まるで見当違いな当て推量をしているのですよ。

おかしいですね。

結局、私は何と云われても構わず、母にお金をねだって、とうとうその覗き絵を手に入れ、それを持って、箱根はこねから鎌倉かまくらの方へ旅をしました。

それはね、兄に新婚旅行がさせてやりたかったからですよ。

こうして汽車に乗って居りますと、その時のことを思い出してなりません。

やっぱり、今日の様に、この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の景色を見せてやったのですからね。

兄はどんなにか仕合せでございましたろう。

娘の方でも、兄のこれ程の真心を、どうしていやに思いましょう。

二人は本当の新婚者の様に、恥かし相に顔を赤らめながら、お互の肌と肌とを触れ合って、さもむつまじく、尽きぬ睦言むつごとを語り合ったものでございますよ。
老人
その後、父は東京の商売をたたみ、富山とやま近くの故郷へ引込みましたので、それにつれて、私もずっとそこに住んで居りますが、あれからもう三十年の余になりますので、久々で兄にも変った東京が見せてやり度いと思いましてね、こうして兄と一緒に旅をしている訳でございますよ。
老人
ところが、あなた、悲しいことには、娘の方は、いくら生きているとは云え、元々人の拵えたものですから、年をとるということがありませんけれど、兄の方は、押絵になっても、それは無理やりに形を変えたまでで、根が寿命のある人間のことですから、私達と同じ様に年をとって参ります。

御覧下さいまし、二十五歳の美少年であった兄が、もうあの様に白髪になって、顔には醜い皺が寄ってしまいました。

兄の身にとっては、どんなにか悲しいことでございましょう。

相手の娘はいつまでも若くて美しいのに、自分ばかりが汚く老込んで行くのですもの。

恐ろしいことです。

兄は悲しげな顔をして居ります。

数年以前から、いつもあんな苦し相な顔をして居ります。

それを思うと、私は兄が気の毒で仕様しようがないのでございますよ
 老人は暗然として押絵の中の老人を見やっていたが、やがて、ふと気がついた様に、
老人
アア、飛んだ長話を致しました。

併し、あなたは分って下さいましたでしょうね。

外の人達の様に、私を気違いだとはおっしゃいませんでしょうね。

アア、それで私も話甲斐はなしがいがあったと申すものですよ。

どれ、兄さん達もくたびれたでしょう。

それに、あなた方を前に置いて、あんな話をしましたので、さぞかし恥かしがっておいででしょう。

では、今やすませて上げますよ
 と云いながら、押絵の額を、ソッと黒い風呂敷に包むのであった。その刹那、私の気のせいであったのか、押絵の人形達の顔が、少しくずれて、一寸恥かし相に、唇の隅で、私に挨拶の微笑を送った様に見えたのである。老人はそれきり黙り込んでしまった。私も黙っていた。汽車は相も変らず、ゴトンゴトンと鈍い音を立てて、闇の中を走っていた。
 十分ばかりそうしていると、車輪の音がのろくなって、窓の外にチラチラと、二つ三つの燈火あかりが見え、汽車は、どことも知れぬ山間の小駅に停車した。駅員がたった一人、ぽっつりと、プラットフォームに立っているのが見えた。
老人
ではお先へ、私は一晩ここの親戚へ泊りますので
 老人は額の包みをかかえてヒョイと立上り、そんな挨拶を残して、車の外へ出て行ったが、窓から見ていると、細長い老人の後姿うしろすがたは(それが何と押絵の老人そのままの姿であったか)簡略な柵の所で、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶け込む様に消えて行ったのである。