第11話

押絵と旅する男 11
8
2022/05/10 23:00
老人
覗き絵の人物は押絵になって居りましたが、その道の名人の作であったのでしょうね。

お七の顔の生々として綺麗であったこと。

私の目にさえ本当に生きている様に見えたのですから、兄があんなことを申したのも、全く無理はありません。

兄が申しますには『仮令たといこの娘さんが、拵えものの押絵だと分っても、私はどうもあきらめられない。

悲しいことだがあきらめられない。

たった一度でいい、私もあの吉三の様な、押絵の中の男になって、この娘さんと話がして見たい』と云って、ぼんやりと、そこに突っ立ったまま、動こうともしないのでございます。

考えて見ますとその覗きからくりの絵が、光線を取る為に上の方がけてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。
老人
その時分には、もう日がくれかけて、人足ひとあしもまばらになり、覗きの前にも、二三人のおかっぱの子供が、未練らしく立去り兼ねて、うろうろしているばかりでした。

昼間からどんよりと曇っていたのが、日暮には、今にも一雨来そうに、雲が下って来て、一層おさえつけられる様な、気でも狂うのじゃないかと思う様な、いやな天候になって居りました。

そして、耳の底にドロドロと太鼓たいこの鳴っている様な音が聞えているのですよ。

その中で、兄は、じっと遠くの方を見据えて、いつまでもいつまでも、立ちつくして居りました。

その間が、たっぷり一時間はあった様に思われます。
老人
もうすっかり暮切くれきって、遠くの玉乗りの花瓦斯はなガスが、チロチロと美しく輝き出した時分に、兄はハッと目が醒めた様に、突然私の腕をつかんで『アア、いいことを思いついた。お前、お頼みだから、この遠眼鏡をさかさにして、大きなガラス玉の方を目に当てて、そこから私を見ておくれでないか』と、変なことを云い出しました。

『何故です』って尋ねても、『まあいいから、そうしておれな』と申して聞かないのでございます。

一体私は生れつき眼鏡類を、余り好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠い所の物が、目の前へ飛びついて来たり、小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる、お化じみた作用が薄気味悪いのですよ。

で、兄の秘蔵の遠眼鏡も、余り覗いたことがなく、覗いたことが少い丈けに、余計それが魔性ましょうの器械に思われたものです。

しかも、日が暮て人顔もさだかに見えぬ、うすら淋しい観音堂の裏で、遠眼鏡をさかさにして、兄を覗くなんて、気違いじみてもいますれば、薄気味悪くもありましたが、兄がたって頼むものですから、仕方なく云われた通りにして覗いたのですよ。

さかさに覗くのですから、二三間向うに立っている兄の姿が、二尺位に小さくなって、小さい丈けに、ハッキリと、闇の中に浮出して見えるのです。

ほかの景色は何も映らないで、小さくなった兄の洋服姿丈けが、眼鏡の真中に、チンと立っているのです。

それが、多分兄があとじさりに歩いて行ったのでしょう。

見る見る小さくなって、とうとう一尺位の、人形みたいな可愛らしい姿になってしまいました。

そして、その姿が、ツーッと宙に浮いたかと見ると、アッと思う間に、闇の中へ溶け込んでしまったのでございます。
老人
私は怖くなって、(こんなことを申すと、年甲斐としがいもないと思召おぼしめしましょうが、その時は、本当にゾッと、怖さが身にしみたものですよ)いきなり眼鏡を離して、「兄さん」と呼んで、兄の見えなくなった方へ走り出しました。

ですが、どうした訳か、いくら探しても探しても兄の姿が見えません。

時間から申しても、遠くへ行ったはずはないのに、どこを尋ねても分りません。

なんと、あなた、こうして私の兄は、それっきり、この世から姿を消してしまったのでございますよ……それ以来というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。

ことにも、このどこの国の船長とも分らぬ、異人の持物であった遠眼鏡が、特別いやでして、ほかの眼鏡は知らず、この眼鏡丈けは、どんなことがあっても、さかさに見てはならぬ。

さかさに覗けば凶事が起ると、固く信じているのでございます。

あなたがさっき、これをさかさにお持ちなすった時、私があわててお止め申した訳がお分りでございましょう。