先生のその一言で、教室は声でいっぱいになった。
部活の用意をする人、友達と帰る人、理由もなく教室に残ってお喋りする人。
あまりの喧騒に耳を塞ぎたくなりながらも、私はリュックを背負ってそそくさと教室を出た。
まだ生徒の少ない階段を逃げるように降りていく。
誰かが開けっ放しにしたのか、開いた窓からは冷たい風が入ってきていた。
私は上着の袖を伸ばしながら身震いした。
そのまま廊下をしばらく歩き、靴箱に手を伸ばそうとしたその時だった。
背後から先生の声がした。いつの間に、と思いながら振り返った。
心当たりはないが、私は先生に呼び止められる程の何かをやらかしたのだろうか。
それとも伝え損ねた連絡事項だろうか。
そんなことを考えていると、先生は持っていたファイルに視線を落とした。
先生はちょっと笑って、私の顔を覗き込んだ。
正直面倒だが先生相手に断れるはずもなく、私は渋々引き受けることになった。
・・・
田中 実久。私と同じマンションに住んでいる、クラスメイトの1人。
いつも決まったメンバーの女子グループにいるため、普段は特に接点がない。
つまり、私はこれから"ほとんど他人"の家のチャイムを押さなければならないのだ。
私は憂鬱な気分になりながら家路を辿った。
マンションに着き、エレベーターに乗り込む。
私は8のボタンを押し、扉を閉めた。
確か実久は8階に住んでいたはず。
私の家は3階。これほどエレベーターに感謝した日はない。
8階に着き、エレベーターを降りる。
部屋番号は朧気だが、なんとか覚えていた。
このマンションに引っ越してきて間もない頃、同じ学校の人の部屋ということで僅かに印象に残っていた。
私は「802」のプレートを確認し、息を整える。
緊張で固まった腕を伸ばし、恐る恐るチャイムを押した。
しばらくして、女の人の声がした。
事前に脳内で何度もシミュレーションしていた台詞をインターホンに向かって話した。
インターホンのランプが切れ、「ガチャ」と音を立てて鍵が開き、次に扉が開いた。
姿を見せたのは、実久の母親と思われる女性だった。
実久の母親は私に笑いかける。
別に友達でもなんでもないんだけどな。
私は何も言えず、黙ってファイルを差し出した。
が、私は緊張のあまり実久の母親がファイルを受け取る前に手を離してしまった。
ファイルは実久の母親の手をすり抜け、プリントをばら撒きながら地面へ落下した。
私と実久の母親は地面のプリントを回収しようとしゃがみこむ。
プリントは今日配られた授業のプリントや、カウンセリングなどの広告がほとんどだった。
だがその中に、1枚だけ他と違う紙があった。
それは誰かの手書きで書かれたであろうもので、明日の時間割や連絡事項が書かれていた。
確か欠席者用の連絡プリントだ。
そのプリントの端には、「早く元気になってね」「今日の時間割地獄だった~笑」などのメッセージが小さく書かれていた。
恐らく実久と一緒にいる女子グループのメンバーが書いたものだろう。
私は心の奥がひやり、と冷たくなった気がした。
プリントを全て拾い終え、これで私の役目も終わりかと思われた。
実久の母親は穏やかな人で、私のミスを咎めるような真似はしなかった。
私は実久の母親に一礼し、帰ろうとした。
その時、
私はそれだけ言って、実久の母親の反応も待たずにエレベーターの方へ駆け込んだ。
8のボタンを押し、エレベーターを待つ。
頭に汗が滲んだ。手の震えが止まらない。
きっと、実久の母親は実久に私のことを話すだろう。それで私は実久の友達でもなんでもないことを知るだろう。
でも、今はそんなことはどうでもよかった。
私は一刻も早く家に帰りたくて、焦りのあまりエレベーターの到着も待たずに横の階段を駆け下りた。
途中で躓き、軽く転んで右足の膝を擦りむいた。
だがそんなことも気にならないくらい、私はただただ焦っていた。怖かったのだ。
3階に着き、私は家の鍵を開け、中に入る。
私は酷く息切れしていた。
落ち着いて息を整え、リビングに入った。
テーブルの上にはいつも通りメモと封筒が置かれていた。
メモには整った字で「今日も遅くなります。これで何か食べてね」と書かれている。
封筒には1000円札。そろそろコンビニのご飯も飽きてきたな。
私は明かりのついていないリビングでしばらくぼーっとしていた。
空っぽの脳内に真っ先に浮かんだのは、お母さんのことだった。
編集部コメント
主人公は鈍感で口下手ではあるものの『コミュ障』というほどではないので、キャラの作り込みに関しては一考の余地があるものの、楽曲テーマ、オーディオドラマ前提、登場人物の数などの制約が多いコンテストにおいて、条件内できちんと可愛らしくまとまっているお話でした!<br />転校生、幼馴染、親友といった王道ポジションのキャラたちがストーリーの中でそれぞれの役割を果たし、ハッピーな読後感に仕上がっています。