第8話

舞姫 8
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2020/05/28 09:04
 食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路はおほむね平滑なりしに、轗軻かんか数奇さくきなるは我身の上なりければなり。

 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡〻驚きしが、なか/\に余をめんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語のをはりしとき、彼は色を正していさむるやう、この一段のことはと生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活なりはひをなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。おのれもまた伯が当時の免官の理由を知れるが故に、しひて其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者きよくひものなりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人をすゝむるは先づ其能を示すにかず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。れそのことのおほむねなりき。

 大洋にかぢを失ひしふな人が、はるかなる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼はうしんなり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活なりはひ、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、しばらく友のことに従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえこたへぬが常なり。

 別れて出づれば風おもててり。二重ふたへ玻璃ガラス窻を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、はだへ粟立あはだつと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。
 飜訳は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比ちかごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
 一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、
天方伯
余は明旦あす魯西亜ロシアに向ひて出発すべし。したがひてべきか、
と問ふ。余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。
いかで命に従はざらむ。
余は我恥を表はさん。此答はいち早く決断して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟とつさかん、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、そのし難きに心づきても、しひて当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。

 此日は飜訳のしろに、旅費さへ添へてたまはりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでのつひえをば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血のさがなりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我心を厚く信じたれば。

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