第2話

舞姫 2
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2020/05/28 09:03
 余は模糊もこたる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、たちまちこの欧羅巴ヨオロツパの新大都の中央に立てり。何等なんらの光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なるさかひなるべく思はるれど、この大道かみの如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々くみ/″\の士女を見よ。胸張り肩そびえたる士官の、まだ維廉ヰルヘルム一世の街に臨めるまどり玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、かほよ少女をとめ巴里パリーまねびのよそほひしたる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青チヤンの上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたるところには、晴れたる空に夕立の音を聞かせてみなぎり落つる噴井ふきゐの水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさしはしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多あまたの景物目睫もくせふの間にあつまりたれば、始めてこゝにしものゝ応接にいとまなきもうべなり。されど我胸にはたとひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物をさへぎり留めたりき。

 余が鈴索すゞなはを引き鳴らしてえつを通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西プロシヤの官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。喜ばしきは、わが故里ふるさとにて、独逸、仏蘭西フランスの語を学びしことなり。彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。

 さて官事のいとまあるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊ぼさつに記させつ。


 ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第にはかどり行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻いくまきをかなしけむ。大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵かうえんつらなることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。

 かくて三年みとせばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなどむるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりとはげますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなくおだやかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。余は我身の今の世に雄飛すべき政治家になるにもよろしからず、また善く法典をそらんじて獄を断ずる法律家になるにもふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。

 余はひそかに思ふやう、我母は余をきたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々さゝたる問題にも、極めて丁寧ていねいにいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかゝづらふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所よそにして、歴史文学に心を寄せ、漸くしよむ境に入りぬ。

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