第10話

舞姫 10
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2020/05/28 09:04
 嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。さきにこれを\繰@あや_つりしは、わがなにがし省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。余が大臣の一行と倶にベルリンに帰りしは、あたかも是れ新年のあしたなりき。停車場に別を告げて、我家をさして車をりつ。こゝにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習なれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きら/\と輝けり。車はクロステル街に曲りて、家の入口にとゞまりぬ。この時窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁ぎよていに「カバン」持たせて梯を登らんとする程に、エリスの梯を駈け下るに逢ひぬ。彼が一声叫びて我うなじを抱きしを見て馭丁は呆れたる面もちにて、何やらむひげの内にて云ひしが聞えず。
エリス
善くぞ帰り来玉ひし。帰り来玉はずば我命は絶えなんを。
 我心はこの時までも定まらず、故郷をおもふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、唯だ此一刹那せつな、_低徊踟蹰ていくわいちちうの思は去りて、余は彼を抱き、彼のかしらは我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははら/\と肩の上に落ちぬ。
馭丁
幾階か持ちて行くべき。
どらの如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
 戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁をねぎらひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥いちべつして余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などをうづたかく積み上げたれば。
 エリスは打笑うちゑみつゝこれをゆびさして、
エリス
何とか見玉ふ、この心がまへを。
といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓むつきなりき。
エリス
わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子ひとみをや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。
彼は頭を垂れたり。
エリス
をさなしと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。
見上げたる目には涙満ちたり。
 二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとてあへとぶらはず、家にのみ籠りをりしが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居おちゐたりと宣ふ。其気色いなむべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相沢のことを偽なりともいひ難きに、若しこの手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉をきかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭をいて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、
うけたまはりはべ
こたへたるは。
 黒がねのぬかはありとも、帰りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯乱は、たとへんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度かしつせられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獣苑のかたはらに出でたり。倒るゝ如くに路のこしかけに倚りて、灼くが如く熱し、つちにて打たるゝ如く響くかしら榻背たふはいに持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽のひさし、外套の肩には一寸ばかりも積りたりき。

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