第5話

舞姫 5
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2020/05/28 09:03
 我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。
これにて一時の急をしのぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ねん折には価を取らすべきに。
 少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別わかれのためにいだしたる手を唇にあてたるが、はら/\と落つる熱きなんだを我手のそびらそゝぎつ。

 嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我僑居けうきよし少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日ひねもす兀坐こつざする我読書の窻下さうかに、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女とのまじはり漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了そくれうにも、余をて色を舞姫の群にぎよするものとしたり。われ等二人ふたりの間にはまだ痴騃ちがいなる歓楽のみ存したりしを。

 その名をさんははゞかりあれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡〻しば/\芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路きろに走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余にひしは、御身おんみ若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にてもつとも悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なるなにがしが、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたるふみなりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆のはこびを妨ぐればなり。

 余とエリスとの交際は、この時までは余所目よそめに見るより清白なりき。彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしきわざを教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台ときびしく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦奈何いかにぞや。されば彼等の仲間にて、いやしき限りなる業にちぬはまれなりとぞいふなる。エリスがこれをのがれしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とに依りてなり。彼は幼き時より物読むことをば流石さすがに好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識あひしる頃より、余が借しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉のなまりをも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字あやまりじ少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余をうとんぜんを恐れてなり。

 嗚呼、くはしくこゝに写さんも要なけれど、余が彼をづる心のにはかに強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前によこたはりて、まことに危急存亡のときなるに、このおこなひありしをあやしみ、又たそしる人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数奇さくきを憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、びんの毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何いかにせむ。

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