第3話

Frédérique 1
616
2019/03/27 17:34

扉が軋む音で、あたしはうたた寝から醒めた。


ここで働き始めて数日。
疲れていたのかな、帳簿を書いている途中で眠ってしまったみたい。

ああ、なんだか遠いところの夢を見ていたような気がする……。
断片的な記憶。リボン、チュール、聞き慣れない言語、それに暖かいひとの手のひら。

目を開けたら、あの夢の中の風景を忘れちゃうかも。それが惜しくて、あたしは目を閉じたまま夢の続きを追った。


地下街の生温い空気、色々な食べ物の混ざった匂いの風が流れ込んでくる。
それと同時に入ってきたお客様に、あたしは気付いていなかった。
教授
開いているかい?
教授
おい、俺だよ、フレデリークに会いに来たのだが! ……さては彼奴あいつ、まだ寝ているな
仕方ない、また日を変えて--
店員
あっ、あの! ……ええと、ようこそ御出でくださいました
いきなり飛び出てきたあたしに、お客様は大層驚いたように目を丸くした。髭を生やした恰幅の良い紳士だった。
教授
……おや、これはこれは! 新顔のプーペですな
店員
……え?
教授
いやぁ、こりゃまた精巧な! 瞳なんか殆ど人間ですな。硝子か、水晶か……
ところで別嬪さん、勝手にクロゼットから出てきて良いのかね? 奴からこっぴどく叱られますよ
どうやらプーペと間違われているらしい、そう気付いてあたしは真っ赤になった。そんな、あんな綺麗なのとは全然違うのに……
店員
いえ、お客様、違うんですっ
店員
あたし……じゃなくてわたくし、ここに勤めている者です
お客様はぱちぱちと瞬きを繰り返して、あたしの頭の先から足先までじっと眺めた。
纏わり付く視線から逃れるようにしてベルを鳴らせば、お客様ははっとして呵々大笑する。
教授
いや……ははは! それは失礼した。なんだ、お嬢さん、ただの人間かい
「ただの」とは大概だけど、楯突く訳にもいかない。悪い人ではないんだろうけど……あたしは何も言えずにポットを温め始めた。
教授
やあ、びっくりしたよ。まさかこの店に生きた人間が居るとは……雇われ店員ですかな?
店員
ええ、つい数週前から
教授
そりゃあご苦労様。奴の相手は骨が折れるだろうね
教授
はあ、それにしても奴は何をしているんだ……
お嬢さん、茶は後でいいから奴を呼んできてはくれないか
ラッキー、願ってもない幸運に飛び上がりそうなのを堪えてポットを置いた。
店員
承知致しました! 直ぐに
教授
ありがとう。はは、そんなに走らなくても……ゆっくりで構わないよ
制服のスカートで滑るようにして、あたしはその場を後にした。





店主
店主
いやいや! 遅くなりました。誰かと思えば教授ではないですか
教授
全く、君の不作法にも慣れたものだよ。あんな働き者の可愛いのを雇って、また出不精が悪化しそうだな
店主
店主
あはっ、ご心配なく。雨期の前に西欧へ行く予定がありますので、黴は生えませんよ
教授
西欧? 買い付けかい?
店主
店主
工房を幾つか訪ねようかと。やっぱり仲買人の手を介しちゃいけませんから
この前なんか、わざわざ取り寄せた帽子の羽根飾り、鶏の尾羽の染め物だったんですよ、酷いでしょう? 孔雀だって聞いていたのに
教授
鶏かあ、そりゃ酷い。仲買人がちょろまかしたのかね
店主
店主
まあ知りませんけど。それからは自分の目で見た物しか信じないようにしてます
--あ、紅茶! ありがと
せっかく静かに差し出したのに、店主が大声を上げたから無駄になった。
店員
……お砂糖とミルクはご入り用ですか
教授
そうだね、砂糖をお願いしようか
店員
お幾つ
教授
四つ。よろしく
無言のままで砂糖壺を開け、角砂糖を四つどぼどぼ落としてかき混ぜた。
店員
どうぞ
店主の顔色をそっと覗うけれど、いつもの人を食ったような笑みを浮かべたままだ。仕方なく盆を抱えて隅に立っていた。
彼の「もう下がってていいよ」をここまで待っていたのは初めてな気がする。
店主
店主
--それで? 今日もフレデリークを構いに?
教授
もちろん。浮気はしない主義でね
正直知らないよと思いつつ、手持ち無沙汰な指先で盆をなぞった。
こんな小物の一つ一つにまで細かい装飾が成されている。螺鈿をあしらった藍染めの模様は、素人目から見ても上品だ。
それに、一体でも高価なプーペを幾つも持っていて……この店の総額を考えただけでも目眩がする。当のあたしは、まだプーペを見たことが無いのだけれど。
店主
店主
すっかりフレデリークにご執心ですね。熱心なことで
失礼、これでも褒めているんですよ
店主
店主
お出ししますので、少々お待ちくださいね
--君、ちょっと手伝ってよ
店員
え? えっと、何を
店主
店主
クロゼット開けるから、扉を押さえてて欲しいんだ。活発な子が逃げ出さないようにね
店員
え……? じ、じゃあ、あたし、クロゼットの向こうを、プーペを見ても良いんですかっ?
空のない地下街に、青天の霹靂が落ちたようだった。
あたしはもうさっきのなんて非じゃないくらいに嬉しかったけれど、店主にそっと諭されて落ち着きを取り戻した。

客間から離れ、クロゼットのある大部屋まで移動する間、ずっと心臓が煩かった。
どんなに綺麗なんだろうとか、どういう風に動くんだろうとか……休憩時間のたびに捲っていたアルバムの、何倍美しいのかな。

店主が大きな南京錠を開ける。

クロゼットの扉が、一切の軋みなく静かに開かれた。
店員
わぁ……!
その時のあたしの歓喜を、きっと希代の詩人でも上手く表せないはずだ。


今まで見たこともないような空間。たっぷりとした布のスカート、柔らかそうな髪、お菓子のような甘い香り、部屋はそんな夢みたいな色々でいっぱいだった。

その正体は、だだっ広い部屋に佇む、数十体のプーペ。

思っていたより大きいけれど、あたしより頭二つ分くらい小さい。殆どが眠っていて、幾つかは絵本を読んだりピアノを弾いたりしている。どの子も綺麗で、砂糖菓子のように華やか。
あたしには、ぼうっとそこに立ち竦む事しかできなかった。

目を醒ましているプーペが数体、店主に駆け寄ってくる。話せないのか、嬉しそうにしがみついて離れそうにない。
店主
店主
あはは、参ったなあ……ああっ、君! 扉を押さえておいて!
店主の言葉にようやく気を取り直して、あたしはふらふらと扉を押さえに行った。



*** continue

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