--店主が不意に出て行ってから、もうひと月が経とうとしている。
はじめは、いつもの酔狂だろうって思ってた。
またまた、旅に出るなんて大口叩いて。
どうせあの人のことだから、どこかで揚げ砂糖でもつまみに果実酒で酔っ払って、土産物屋を冷やかすついでに変な楽器を買い込んで、たいしてお腹も膨れていないのに水煙草を吸うものだから、気管支を痛めてすごすご帰ってくるんでしょ、って。
旅? あの人が? まさか! 有り得ない!
あの意志薄弱の権化が汽車旅行だなんて、笑っちゃう。きっとすぐに戻ってくるでしょう?
--違ったの。
あの人、ほんとに汽車に乗って、大陸の西の方までがたごと、プーペを買い戻しに行っちゃった。
たった一体のきれいなお人形のために、わざわざ高価い切符を買い付けて、全財産、トランクいっぱいの札束を抱えて。
……どうかしてる。ほんとに、馬鹿げてる。
なんてあの人に強く言えなかったのは、あたしだってよく知ってるから。
プーペは、簡単に人を狂わせる。
……いや、これでもあの人なりに頑張ったんだろう、たぶん。
休業の手紙をお得意様に何十枚も送りつけ、「食費と光熱費ってどれぐらいかかるの」とか言いながら数年は困らないくらいの現金を金庫に詰め込み、プーペのメンテナンスと店舗運営に関する長い長い手紙を書き置いて。
これらを全て、たった一日でやってのけたんだから驚いた。
未熟な雇われ店員のために、あの筆不精、手首の腱を痛めるくらいの書き物をしてくれたんだから、感謝しなきゃ……
シャルロットはゆっくりと首を振って、気にしてないよ、って伝えてくる。肩に薄く積もっていた埃が舞って、窓辺の光を反射した。
プーペの寝室に入ったのは、お昼の紅茶を淹れた後。それから……出たときに、鍵、かけ忘れてた……?
そうだ、あの寝室には、非常出口があったっけ。
店の裏口をぐるりと廻って勝手口から入れる、緊急時しか使わないようにかたく言い付けられた、埃まみれの出口。
何かあったの、と問うと、シャルロットははっとして慌てだした。
静かに首肯したシャルロットを、救急箱--補修用のパテと絵具と白粉--の乗ったワゴンに座らせて、プーペたちの寝室へ急ぐ。
滑らかな毛足の絨毯を滑るように移動しながら、深紅のお下げ髪の人形のことを、あたしは思い出していた。
ジャンヌはどっちかというとお転婆な部類のプーペだけど、怪我をするような気性の荒い子じゃなかったはず。
じゃあ、あの部屋で、普通じゃない何かがあった……?
これまで恙なく過ぎていた雇われ店員の留守番に、不穏の香りが漂い始めていたなんてこと、この頃のあたしは気付いてもいなかった。
編集部コメント
依頼人の悩みや不安に向き合うカウンセラーという立場の主人公が見せる慈愛にも似た優しい共感と、その裏にひそむほの暗い闇。いわゆる正義ではないものの、譲れない己の信念のために動く彼の姿は一本筋が通っていて、抗いがたい魅力がありました!