第2話

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2022/08/04 11:00
       ◆

 緑川杏奈がフィレンツェに着いた時には夕方になっていた。夕日が石造りの町を金色に染めていて、あまりにきれいで見とれてしまった。
 建物の長い影が石畳の上に伸びて、金と黒の縞模様を作っている。
 魔法の国にきた、と杏奈はそのとき思った。
 舞い散る落ち葉の1枚1枚に妖精が乗っているのではないかとさえ、思った。

 杏奈が選んだホテルはガイドブックにのっていたプチホテルで、家族経営のアットホームな宿だった。
日本の旅行雑誌に紹介され、日本人がたくさんくるんだよ、とフロントの太ったマンマが嬉しそうに迎えてくれた。ガイドブックが誇らしげにフロントに飾られている。
 部屋に荷物を置いて、杏奈は外に出た。もう夜だから観光はゆっくり明日するとして、今日は近くのヴェッキオ橋だけ行こうと決めた。

 この橋は貴金属専門の店が並んでいて、さまざまな小物を扱っているとパンフレットで知っていた。
 現在の橋は14世紀に再建されたものだが、それでもフィレンツェ最古の橋として知られている。
 昔は食肉を扱う店が並んでいたが、異臭を放つということで富豪のメディチ家によって撤去され、かわりに美しい金属・宝石を扱う店が並ぶようになった場所だ。

 橋の上は大勢の人でにぎわっている。ほとんどが観光客のようだ。アジア系も大勢いた。
 小さな店がぎっしりと並び、店頭にこれでもかというほど土産用の貴金属を出している様子は、日本の夜店のようだ。杏奈はそれらをゆっくりと眺めた。
 日本にいるときは貴金属などには興味はなかったが、ここにおいてあるアクセサリー類はどれもクラッシックな形で目に楽しかった。
お店の人がネックレスを手にとって勧めてくる。値段が桁外れなので杏奈は笑って手を振った。
 ある店の前で杏奈は立ち止まった。青いトルコ石を真ん中にあしらったネックレスに目を引かれたのだ。
 手にとってみていると店主が値段を告げてきた。それほど高くはない。
 フィレンツェの思い出に買ってもいいかもしれない……でもこんな派手なネックレス、日本でつけていく場所があるかしら。
 旅行先ではとんでもないものを買って、あとから後悔することもある。
 五年前、母親はミラノで勧められた花瓶を買ったが、その重厚でごてごてした花瓶は家のどこへ置いてもちぐはぐで、結局物置にしまわれたままだ。
杏奈
(どうしよう……でもきれいなブルー……)
 ワゴンの中のそれを睨んでいると、隣に同じように腰をかがめて唸っている客がいた。
 艶やかな栗毛の眼鏡をかけた白人男性だ。
 整った顔立ちで鋭角的な輪郭が理知的で、金縁のフレームが嫌味なく似合っている。
 彼が手に持っているのはバラの花をかたどったブローチと、ガーベラの花束のようなブローチだった。
杏奈
(彼女にでもプレゼントかしら)
 真剣な彼の顔にふと笑みが浮かぶ。その気配を感じたのか、彼がいきなり振り向いた。
杏奈
あ、ごめんなさいソーリー……
 笑ったことが失礼だったかと思わず英語で謝った。
 それに彼は目元をなごませた。瞳がきれいなトルコブルー。
???
ちょっと意見を聞きたいのだけれど
 低く、なめらかな英語が彼の口から流れた。
???
こちらとこちら……君はどっちが好き?
 彼はバラとガーベラを杏奈に見せた。
杏奈
え……
 杏奈は目をぱちぱちさせた。
杏奈
あたしは……
 ほとんど無意識にガーベラの方を指差していた。たくさんの花びらが明かりを反射してきらきらと美しかったからだ。
???
そうか。よし、こっちにしよう!
杏奈
え、あの、ちょっと
 自分の無責任な発言でこのハンサムな男性の恋人を怒らせてはたまらない。杏奈は思わず彼の腕を掴んでいた。
杏奈
だめよ、あたしの意見なんて。あなたが選ばないと彼女が喜ばないわ
???
僕はもう15分以上悩んでいてね
 彼は明るい笑顔でウインクしてきた。
???
そろそろ足がしびれてきたんだ。このくらい悩んでいたんだから彼女も許してくれると思うよ

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